掲載時肩書 | 参議院議員 |
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掲載期間 | 1981/09/15〜1981/10/12 |
出身地 | 北海道 |
生年月日 | 1900/08/16 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 81 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 二高 |
入社 | 内務省 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 青森、静岡、宮内省、2.26事件、中野正剛検挙反対(自害)、警視総監、終戦前後、都次長、参議員、知事 |
恩師・恩人 | 近藤攘太郎、水野茂夫 |
人脈 | 村山知義、土井晩翠(先生)、迫水久常、田中大将自害、大麻唯男、松村謙三、林譲治 |
備考 | 父金弥:酪農家(クラーク博士弟子)、兄:敬貴 |
1900年〈明治33年〉8月16日 – 1992年〈平成4年〉12月14日)は北海道生まれ。内務官僚、政治家。
クラーク博士の創設した札幌農学校で学び日本における“酪農の草分け”と言われた町村金弥の五男である。内務官僚時代は、官選の新潟県・富山県両県の知事を経て、内務省警保局長や警視総監などを歴任した。元貴族院議員・元参議院議員町村敬貴の実弟、元衆議院議員町村信孝の実父、衆議院議員和田義明の義理の祖父(夫人が信孝の娘)。
1.二・二六事件の内輪話
昭和8年(1933)2月、会計検査院長だった湯浅倉平氏が宮内大臣になられた。私は大臣秘書官と官房書記官の兼務を命ぜられた。昭和11年2月26日の早暁、私は官邸警備の警官に叩き起こされた。この巡査は息せき切って、「今軍人の一隊が侍従長の官邸に侵入し、鈴木侍従長は殺害された模様だ」という。
私はまず何としても湯浅大臣をお守りしなければと、折からの雪を蹴って大臣官邸に駆け付けた。しかし大臣は、「すぐ参内するが、その前に侍従長を見舞いに行くので先に行け」と言われ、私は侍従長官舎に駆け付けた。鈴木侍従長は4発の銃弾を受け、畳は血に染まり、そばで奥様と女中がタオルで出血を押さえていた。剛毅な鈴木侍従長は重病の中で「ありがとう、大したことはない」と言われたが、私はとっさに、東大の塩田広重博士のことを思い出し、電話を入れた。
博士から「何でやられたか?」と聞かれ、「ピストルです」と答えた。30分後に塩田博士は来邸、応急の処置をしている間に、若い者が30人くらい、続々と駆け付けてきた。輸血の血を提供するためである。侍従長は出血多量ではあったが、この輸血で一命をとりとめることができた。後で聞くと塩田博士は、緊急の際を考慮し、50人ほどの青年に毎月手当てを与えて、血液提供の契約をされていた。私は心から敬服した。
2.内務省・人事課長への知事評価
昭和14年(1939)4月、人事課長を命ぜられた。その頃の内務省は、本省の幹部職員こそ少人数であったが、全国都道府県の知事の他、幹部職員を擁していたので、人事課長の仕事はなかなか骨の折れるものであった。知事は「地方長官」と呼ばれ、広範で強大な権限を与えられており、知事に優秀な人材が座るか否かがその地方住民の利害にかかわる。知事に適材を配するのが、人事課長の重大職責だった。
この課長職責は、今も同じであろうが、全く損な役回りで、クビを切られた人からは「あれにやられた!」と恨まれるし、昇進した人は昇進するのが当たり前で遅すぎたと考える。感謝されることのない役柄であった。
3.東条内閣転覆陰謀と中野正剛氏の自害
昭和18年(1943)4月、私は内務省警保局長になった。ある日、内閣書記官長の星野直樹氏が、「憲兵情報によると、代議士の中野正剛氏が東条内閣を激しく攻撃し、内閣転覆を企てている」との申入れだった。内務省としては中野氏の演説内容に注意を払っていたものの「言論出版に関する臨時措置法」に該当しないと判断していたが、なお調査する旨を約した。
すると間もなく、東条英機首相から内務大臣、司法大臣、検事総長、憲兵司令官、警視総監、警保局長に招集がかかってきた。席上、憲兵司令官は「すでに憲兵が提出した証拠によって、中野氏の容疑は明白なので、検察当局は速やかに逮捕に踏み切るべきである」と、強く主張した。これに対し私は、「内務省は全力を尽くして精査に努めたが、憲兵隊の資料は確実な資料とは認めがたい。従って検挙はできない」と反論した。検事総長の松阪広政氏も「容疑の事実が明確でならない限り、検挙命令はだせない」と言い切られた。しかるにその後、数日にして憲兵隊は中野氏を連行し、「自供した」とうわさがひろがった。
中野氏は国会開会の前日に釈放されたが、釈放された翌日、自宅で自害を遂げられた。なぜ自害されたのか、真相は不明であるが、私は憲兵隊に連行された抗議の自害ではないかと思っている。
町村 金五 まちむら きんご | |
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警視総監在任中の町村金五 | |
生年月日 | 1900年8月16日 |
出生地 | 北海道札幌市 |
没年月日 | 1992年12月14日(92歳没) |
出身校 | 東京帝国大学(現・東京大学) |
前職 | 内務省官僚 官選第33代新潟県知事 官選第28代富山県知事 第53代警視総監 北海タイムス社代表取締役会長 |
所属政党 | (改進党→) (無所属→) (自由党→) (自由民主党→) (無所属→) 自由民主党 |
称号 | 正三位 勲一等旭日大綬章 |
配偶者 | 妻・町村二葉 |
親族 | 父・町村金弥 兄・町村敬貴 二男・町村信孝 |
内閣 | 第2次田中角榮第1次改造内閣 |
在任期間 | 1973年11月25日 - 1974年11月11日 |
選挙区 | 全国区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1971年7月4日 - 1983年7月9日 |
選挙区 | 旧北海道1区 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1952年10月2日 - 1959年3月25日 |
公選第4-6代 北海道知事 | |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1959年4月23日 - 1971年4月22日 |
その他の職歴 | |
第11代 自由民主党参議院議員会長 (総裁:鈴木善幸) (1980年 - 1982年) |
町村 金五(まちむら きんご、1900年〈明治33年〉8月16日 - 1992年〈平成4年〉12月14日)は、日本の内務官僚、政治家。勲一等正三位。
官選新潟県・富山県知事、警保局長(現在の警察庁長官相当)、警視総監、衆議院議員、公選北海道知事、参議院議員、自治大臣兼国家公安委員会委員長兼北海道開発庁長官、自民党参院会長を歴任した。