田鍋健 たなべ まさる

建設・不動産

掲載時肩書積水ハウス社長
掲載期間1985/10/02〜1985/10/31
出身地大阪府北区
生年月日1912/10/21
掲載回数30 回
執筆時年齢73 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他三高
入社日本窒素肥料
配偶者妻4人目 32歳下
主な仕事朝鮮窒素、戦後、日本薬品化成、積水化学工業、積水ハウス、住宅生産振興財団
恩師・恩人兄幸雄
人脈磯田一郎・田宮虎彦(ラクビー先輩)山本登美雄、宮崎輝、上野次郎男、木幡謙三、安西正夫
備考囲碁、将棋、日本舞踊
論評

1912年10月21日 – 1993年8月2日)は大阪生まれ。実業家。積水ハウス元会長・社長。1936年に日本窒素肥料株式会社入社。1950年、新日本窒素肥料株式会社(現・チッソ株式会社)熊本営業所長。戦後、積水化学工業株式会社に入社。1955年に同取締役、1957年に同専務取締役就任。1963年に積水ハウス代表取締役社長に就任。累積赤字のふくらんだ同社を合理化と近代化で再建、プレハブ業界トップに育て上げた。

1.朝鮮窒素肥料の野口遵社長構想
昭和11年〈1936〉、私が入社した日本窒素肥料は、バイタリティに溢れた会社だった。グループ全体で従業員は3万6千人、押しも押されぬ大企業である。私は朝鮮窒素肥料の要員として採用されており、社業習熟のため、1年間本社勤務だった。そして翌12年3月に、朝鮮窒素興南工場に赴任した。
 日窒の創業者である野口遵社長は、会社の命運を賭けて朝鮮での事業に取り組んでいた。野口さんの発想は壮大だった。朝鮮半島の東部は山岳地帯で、海岸側は切り立った崖になっており、西側はなだらかに傾斜している。この傾斜に沿って川が何本か流れているので、これを堰き止めて貯水池をつくるとともに、山の高低差を利用して発電所をつくる考えだった。最初に完成したのが赴戦江発電所、次いで長津江、虚川江、その後、鴨緑江にも出て、総出力は150万キロワットに達していた。
 野口さんはこの電力をテコに、電気化学工業を発展させようと考えて、興南地区に大規模なコンビナートを形成するため、昭和2年に朝鮮窒素を設立した。興南工場はその中核であり、主として水の電気分解とアンモニア合成によって硫安を生産していた。私が着任した12年は既に量産体制が確立しており、年間40万トンになっていた。これは当時の日本全体の生産量の半分である。このほか、化成肥料、油脂、火薬、カセイソーダ、カーバイドなども生産していた。私は日本経済の最前線で働く“先兵”という自負があった。

2.日本窒素肥料から積水化学に転出
昭和30年(1955)4月、東京本社から「積水化学工業に転出」となったが、上野次郎男社長の強い要請であった。「住宅をオールプラスチックで作れないか」と、あるとき上野社長が提案した。積水化学は主力製品のプラスチックの用途拡大に血眼になっていた。技術陣はさっそく研究に着手した。屋根、柱、床、壁と、プラスチックで作ってみたものの、やはり、強度、耐熱性など多くの問題があることが分かった。
 それでは、骨組みは軽量鉄骨を使って、部分部分はプラスチックをできるだけたくさん使った住宅にしよう、ということになった。昭和35年(1960)3月、大阪市内にある旭工場で試作住宅が出来た。この「セキスイハウスA型」を大阪駅前と東京神田に展示場を開設した。部品を組み立てて作った住宅、というもの珍しさもあって、予想以上の来場者があった。
 「これはいける」と判断した上野さんは、本格的に住宅事業に進出することに決め、8月「積水ハウス産業」を設立した。資本金1億円。出資比率は積水化学工業が30%、新日本窒素肥料(現チッソ)、旭化成工業の旧日窒グループ2社の他、三和、大和の両銀行、第一生命保険、丸紅飯田(現丸紅)、三菱電機がそれぞれ10%だった。上野さんが社長を兼務、私も取締役になった。

3.日窒コンツェルンから3つの同業他社
親会社と子会社が同じ分野で競合し、さらに同じグループの会社も加わって、それぞれの事業が軌道に乗っている、というような例は、ざらにはないだろう。プレハブ住宅の昨1984年の着工件数は約16万戸だが、このうち積水ハウス、積水化学工業、旭化成工業の旧日本窒素肥料グループ3社で、約4割に当たる6万戸を販売している。3社の住宅売上高を合わせると、約7千億円に達する。
 昨年夏開かれた積水化学の住宅進出15周年記念パーティで、私は「旧日窒グループ3社で日本のプレハブ住宅の過半数を占めるのもそう遠くはない」とぶち上げた。本当にその日を楽しみにしている。

田鍋 健(たなべ まさる 1912年10月21日 - 1993年8月2日)は、日本実業家積水ハウス元会長・社長。

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