田辺聖子 たなべ せいこ

文芸

掲載時肩書作家
掲載期間1997/05/01〜1997/05/31
出身地大阪府
生年月日1928/03/27
掲載回数30 回
執筆時年齢69 歳
最終学歴
大阪樟蔭女子大学
学歴その他
入社金物問屋
配偶者38で42歳の医師と
主な仕事「文藝首都」、古事記、日本書紀、芥川賞(感傷旅行)、
恩師・恩人藤沢桓夫
人脈保高徳蔵、司馬遼太郎夫人(後輩)、長沖一、藤本義一
備考父:写真館
論評

1928年3月27日 – 2019年6月6日 )大阪府大阪市生まれ。小説家、随筆家、文芸評論家。
純文学から次第に大衆小説へと軸足を移し、より身近な設定における恋愛小説や社会風刺的なエッセイなどを精力的に執筆する。また古典文学の流れから歴史小説、川柳にも活躍の場を広げ、同じ大阪出身の歴史小説家である司馬遼太郎とも親睦を結んでいる他、自身も江戸時代の俳諧師・小林一茶の生涯を描いた『ひねくれ一茶』で吉川英治文学賞を受賞している。
 大阪弁で「私の履歴書」に登場し、ユーモアとテンポのある口調で書いていた。

1.関西人の気質
 小林一三について:宝塚を作った彼を、大阪庶民は熱い近親感をもっており、「イチゾはん」となれなれしく呼び、その業績を我がごとのように自慢した。大阪人は、「天神さん」「太閤はん」は絶対であった。そこへ小林さん(イチゾはん)が加わる。

2.大阪商人のシャレ (職場言葉)
「よろしおま、まかしとくなはれ」「お前はうどん屋の釜じゃ、本気で売れよ!」
と番頭が叱るのは、「うどん屋の釜」は「湯ウ、ばっかり」というシャレである。
「こんなパチもんは鬼の死骸」でっせ」と、ブーたれる若い衆もいる。これは「引き取り手がない」のシャレで、「そこをうまいこと、乞食のシラミで売りつけるんじゃ!はよ、出ていきさらせっ」と、番頭はカマす。「乞食のシラミ」は「口で殺す」のシャレである。
こんな言葉がポンポン飛び出す職場だった。

3.司馬遼太郎氏との縁(夫人)
「感傷旅行」で芥川賞を36歳で受賞すると多くの出版社からの原稿依頼や新聞・雑誌からのインタビューも多かった。「文学界」から求められた第二作の「オランダ遠眼鏡」を書き悩んでいた。そんな中で、産経新聞から来た女性記者が深紅のバラの花束を(これは樟蔭・国文の後輩として、プライベートなプレゼントです)と下さった。司馬遼太郎夫人のみどりさんなのであった。(たぶんこのころから遠くない時期に退職され、文業に忙しい司馬さんを支えられたのだろうと思う) 司馬さんは『花狩』の出版記念会にも出席してくださっていたし、思えばご夫妻とも古いお付き合いだ。

4.カモカのオッチャン(のちの主人現れる)
私は大衆小説の“物語”こそ私の地声で、”純文学“は裏声だった。地声で書く小説は楽しかった。
このころ、妹も弟も結婚して家を出ており、退職を果たした母と二人きりの生活で、ようやく私の人生も安定してきたかなぁ、というときにへんなおっさんが現れ(結婚しませんか)という。
(あんたな、一人で赤目吊って書いとるのん、しんどいやろ。ワシ(そんな言葉を使う年頃の男だ)と一緒になったら、またおもしろい小説、書けまっせ)
―これには弱い、テキは私の弱点を突いてくるのである。
 小説雑誌が花盛りの頃で、短編の注文もシャワーのようにきた。まだまだ試みたいことが次々にあって、睡眠時間もろくに取れない。
そういう時に、(へんなおっさん)のプロポーズされたって、(どいて、どいて!そこ、どいて!邪魔せんといて!あっちいけ!しッしッ!)と叫びたいのであった。しかし、おっさんはあきらめない。
 南方海上諸島生まれの人で、こういう人は、のんきそうで見えながら、しぶといのである。万里の波濤をしのいで木の葉のような小舟で漁に出かけた先祖のしぶとい勇敢な血が騒ぐのかもしれぬ。
(同じ人生、おもろうに暮らした方がトクじゃ)の一辺倒で迫ってやまない。
 結局、どういう拍子でか、結婚することになってしまった。私は38歳で、彼は奄美出身・鹿児島医専卒、42歳(直木賞候補だった故・川野彰子の夫)だった。

追悼

氏は’19年6月6日91歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は1997年5月の69歳のときであった。女流作家でこの「履歴書」に登場は、平林たい子円地文子瀬戸内寂聴佐藤愛子に次いで5番目であった。

巧みな大阪弁を駆使して男女の機微を描いた小説家として知られた。最初はラジオドラマの脚本も手掛けたが、次第に大衆小説へと軸足を移し、より身近な設定における恋愛小説や社会風刺的なエッセイなどを精力的に執筆した。また古典文学の流れから歴史小説、川柳にも活躍の場を広げ、同じ大阪出身の歴史小説家である司馬遼太郎とも親睦を結んでいる他、自身も江戸時代の俳諧師・小林一茶の生涯を描いた『ひねくれ一茶』で吉川英治文学賞を受賞している。
 
 氏は、小林一三氏が宝塚を作った偉大な人物として、大阪人が熱い近親感をもっており、「イチゾはん」となれなれしく呼び、その業績を我がごとのように自慢し、「天神さん」「太閤はん」とおなじく絶対であったと書いている。
 氏の昭和32,33年ごろは才女時代と言われた。挽歌の原田康子、有吉佐和子、山崎豊子、瀬戸内晴美らであった。

私生活では長年独身であったが、文学仲間の川野彰子への追悼文を寄せたことが縁で、その夫で神戸で医師をしていた川野純夫と知り合い、1966年に後妻として川野と結婚し、2002年に死別するまで36年間連れ添った。 この川野氏が「カモカのおっちゃん」シリーズのモデルとなっていた。この夫と毎晩のように晩酌を楽しみ、一緒に阿波踊りなどにも出かけた。趣味も多彩で、大の宝塚歌劇ファンでもあり、人生の楽しみ方の達人でもあった。

美女と才女
田辺聖子
たなべ せいこ
田辺 聖子
新潮社『旅』第40巻第7号(1966)より
誕生 田邉 聖子
1928年3月27日
日本の旗 大阪府大阪市
死没 (2019-06-06) 2019年6月6日(91歳没)
日本の旗 兵庫県神戸市
職業 小説家
随筆家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
教育 得業士
最終学歴 旧制樟蔭女子専門学校
活動期間 1956年 - 2018年
ジャンル 恋愛小説
歴史小説
随筆
評伝
代表作感傷旅行』(1964年)
新源氏物語』(1978年 - 1979年)
姥ざかり』(1981年)
ジョゼと虎と魚たち』(1984年)
『ひねくれ一茶』(1993年)
『道頓堀の雨に別れて以来なり――川柳作家・岸本水府とその時代』(評伝、1998年)
主な受賞歴 大阪市民文芸賞(1956年)
芥川龍之介賞(1964年)
女流文学賞(1987年)
吉川英治文学賞(1993年)
菊池寛賞(1994年)
紫綬褒章(1995年)
泉鏡花文学賞(1998年)
読売文学賞(1999年)
蓮如賞(2003年)
朝日賞(2007年)
文化勲章(2008年)
従三位(2019年、没時叙位)
デビュー作 『花狩』(1958年)
配偶者 川野純夫(1966年 - 2002年、死別)
テンプレートを表示

田辺 聖子(たなべ せいこ、本名:田邉 聖子[1]1928年3月27日 - 2019年6月6日[2])は、日本小説家随筆家文化功労者文化勲章受章者。位階従三位

大阪府大阪市生まれ。淀之水高等女学校を経て樟蔭女子専門学校(現大阪樟蔭女子大学国文科卒。恋愛小説などを中心に活動し、第50回芥川龍之介賞などの受賞歴がある。

  1. ^ 『官報』第50号12ページ 令和元年7月16日号
  2. ^ 作家の田辺聖子さん死去 91歳 文化勲章受章,朝日新聞デジタル,2019年6月10日
[ 前のページに戻る ]