掲載時肩書 | ミノルタカメラ会長 |
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掲載期間 | 1983/04/25〜1983/05/21 |
出身地 | 和歌山県海南 |
生年月日 | 1899/11/20 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 84 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | 和歌山商業高校 |
入社 | 日本電報通信 社(電通) |
配偶者 | 母里の娘 |
主な仕事 | 父・田嶋商会、28歳外遊6月間、日独写真機商店、(ミノルタ)高級一眼レフ、二眼レフ、ライツ社技術提携、宇宙カメラ、万博迷い子センター |
恩師・恩人 | 小泉信三、日疋誠、森脇佐助 |
人脈 | 小野田寛郎、高松享、宇宙飛行士グレン中佐 |
備考 | 父の愛情、「難有り、有難し」 |
1899年11月20日 – 1985年11月19日)は和歌山県生まれ。実業家。ミノルタカメラ(現:コニカミノルタ)創業者。和歌山県海南市出身。戦時中は海軍の要請で士官用プリズム双眼鏡などを製造した。1962年2月にはアメリカ初の有人衛星・フレンドシップ7号に「ミノルタハイマチック」が搭載され、このカメラで写した地球の写真が世界中の新聞に掲載、一躍知名度を高めた。1985年2月、世界初の本格的なオートフォーカス一眼レフカメラ「α-7000」を発売、世界中で爆発的な人気を呼び、史上空前の売れ行きとなった。
1.ミノルタカメラの創業
昭和3年(1928)11月11日、個人経営「日独写真機商会」の名を掲げ、兵庫県の鳴尾村(現西宮市)・武庫川畔で、操業を開始した。時に、私は満29歳の誕生日を迎えようとしていた。社名に「日独」と冠したのは、日本人である私が、ドイツ人二人の協力を得て出発した、という意味を持たせたからだった。この日は、今日のミノルタカメラの創業の日として、いつまでも記念すべき日となった。
創業時の規模は、土地が300坪、建物は木造スレートぶき一部二階建ての延べ130坪。一階では機械加工、塗装、メッキなどをやり、2階は写真機の組み立て専用とした。設備の方は、スイス・ピーターマン社製の自動旋盤をはじめ、ターレット旋盤、セーパー、ボール盤、フライス盤、30トンプレス、デッケル彫刻機など、当面必要なものは一通り備え付けた。人員は私も含めて総勢30人、平均年齢は35歳前後だった。
2.初の海外進出を米国市場で
米国FR社という写真薬品メーカーが要求した「MX接点(シャッターとフラッシュの同調機構)付のカメラが絶対条件」を、社内技術陣の総力結集で完成させることができた。昭和30年〈1955〉初めには輸出条件を満たした「ミノルタオートコード」など2機種を開発、同年3月、アトランタで開かれたMPDFA(全米写真業協会)ショーに出品した。これが大評判となり、広く米国のカメラ業界の注目を集めた。「安かろう、悪かろう」という日本製品一般に対する当時の先入観が、ことカメラに関して、米国人の頭から消え去ったのはこの時以来であった、と今でもひそかに自負している。
このあと、FR社と正式に販売代理店契約を結び、同年夏ごろから本格販売を開始した。対米国というより対海外での販売提携は、これが日本のカメラ業界でも最初であった。
3.宇宙でハイマチックカメラが活躍
昭和37年(1962)は、私どもの会社にとって30年代では最良の年となった。37年といえば、岩戸景気の中で会社も順調に伸び、社内に活気があふれていた時期だ。この年の2月、アッと驚くうれしいニュースが飛び込んできた。グレン中佐の乗る「フレンドシップ7号」に私どもの「ハイマチック」が搭載された、というのだ。しかも、それで撮影した地球の写真が、その直後に世界中の新聞やテレビに大きく紹介された。
第一報に接した時の感激もさることながら、掲載された写真を見た時の喜びはまた格別だった。宇宙から見た地球を、ハイマチックが美しく、鮮やかにとらえていたからだ。重力に逆らって超高速で発進する宇宙船のことだから、カメラも衝撃に耐えうるよう堅牢で、しかも宇宙服を着た飛行士にとって操作が簡単で100%確実に撮れることが、絶対条件となる。これらの諸条件を満たすカメラとして、ハイマチックが選ばれたのである。後日、明らかにされたところでは、グレン中佐自らが世界各国の20数機種を一台一台慎重に点検、その中から4機種に絞り、最後にハイマチックに決めたそうだ。
私は「これで、ミノルタの名前も世界中に知れ渡った」と思った。そして、この時期を逃せば「ブランド名と社名の一致を実現する機会はない」・・・そう考えた私は、それまでの千代田光学精工から現社名のミノルタカメラに改称することを決意した。私の永年の”宿願“がかなって新生「ミノルタ」がスタートを切ったのは、この7月からであった。時の人グレン中佐は翌38年5月、家族と連れ立って来日され、私どもの堺工場にも立ち寄られた。