スポーツ
掲載時肩書 | 福岡ソフトバンクホークス会長 |
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掲載期間 | 2015/01/01〜2015/01/31 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1940/05/20 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 75 歳 |
最終学歴 | 商業高校 |
学歴その他 | 早稲田実業 |
入社 | 巨人 |
配偶者 | 巨人ファン(小八重恭子) |
主な仕事 | 22年間(本塁打王15、打点13、首位打者5、三冠王2、MVP9、本塁打868、試合2831) |
恩師・恩人 | 荒川 博 |
人脈 | 川上監督、別所コーチ、長嶋、藤田監督、江川事件 、桑田、根本睦夫、中内功、ソフトバンク生徒(小久保・秋山・城島) |
備考 | 父:中国・浙江省出身、兄:医師(慶応) |
1月の「私の履歴書」は王さんだった。S31年3月から連載して彼が784番目となる。プロ野球選手では、川上哲治、鶴岡一人、別所毅彦、西本幸雄、杉下茂、稲尾和久、野村克也、長嶋茂雄、吉田義男、広岡達朗に次いで、11人目であった。彼の対人スタイルは「万事控えめに」であった。これは中国の田舎から出てきて日本で定職にありついた父親が「日本に生かされている」と言い、周囲との折り合い、何事も穏便に済ませ、波風を立てないように生きてきた教訓だった。このスタイルで野球にも取り組んだので、ホームランを打っても相手の投手の心痛を思い、派手なジェスチャは取らなかった。唯一の例外は756号の世界記録ホーマーだけは、打った瞬間に両手を挙げてしまったと書いている。
1.一本足打法
一歩足打法そのものが不器用さの産物だった。投球との間合いが取れず、どうしても差し込まれるために始めた窮余の策だった。なぜああいう器用な打ち方ができるかと尋ねられるが、他に打てる方法がなかったからと答えるしかない。
一本足で打ち始めると、1,2塁間を狭める「王シフト」という守備体制がとられた。ガラ空きの左方向に当てていけばよいのに、それはできないし、やりたくない。もしあそこで流し打てる打者だったなら、今の私はなかった。私の記録のすべては不器用さと頑固さのお蔭かもしれない。
2.荒川博さんとの出会い
小学校4年生のとき、クラスの仲間とチームを作り、投手で4番を打った。地区で優勝経験もある。1954年11月末、中学2年のとき、公園で試合をしていると、一人のおじさんが自転車で通りかかった。2打席凡退に終わった後、おじさんが割り込んできた。「坊や、なんで右で打っているの?」兄たちが右で打っているので真似ただけだった。「じゃあ、次は左で打ってみたらどうだい」。「ハイ」と言って左で打つと、ジャストミート。大きな二塁打となった。このおじさんが荒川博さんだった。
1959年の入団以来3シーズン、「背番号1」の期待に応えられなかった。61年のシーズン後に就任した荒川博コーチは「あと2年でトレードかクビ」とみていた。「道場」となっていた荒川さんの早稲田の家で特訓が始まった。速球に差し込まれないためにはスイングスピードを増すこと。そのためにバットを振込む。振り込むために走り込む。練習量は雪だるま式に増えた。
荒川さんは合気道の開祖とされる植芝盛平先生に師事し「気」の考え方を取り込んでいた。インパクトの瞬間に気を集めるため、息を止めてスイングを連続する。最初は10回も振ると酸欠でクラクラしてくるが、一息で30回振れるようになった。徹底的に基礎を磨きつつ、タイミングの取り方を工夫する中で出てきたアイデァが一本足だ。
3.天覧試合
ルーキーイヤーの1959年、6月25日の巨人―阪神戦はプロ野球初の天覧試合となった。前日まで打率1割6分9厘、3ホーマーの低空飛行だったけれど、「6番一塁」で先発起用された。戦後70年になる今では想像できないほど陛下の臨席は畏れ多かった。貴賓席に顔を向けるのもはばかれ、一塁を守りつつ、投球の合間にチラチラと見やった。スタンドの売り子さんも声を静め、おごそかなムードで始まった試合は阪神が先行、巨人が長嶋茂雄さん、坂崎一彦さんの連続本塁打で逆転というシーソーゲームになる。2-4で迎えた7回、一死一塁で打席が回ってきた。阪神の先発、小山正明さんの球を捕らえて右翼席に飛び込む同点2ラン。これが106回記録される長嶋さんとのアベック弾の始まりだった。
「職業野球」の名残で、アマチュアより低く見られがちだったプロ野球が国民的娯楽として認知されるきっかけとなった試合だった。
4.シーズン55本塁打
プロ4年目、1962年に一本足で本塁打王になり、翌年は40本に伸ばし、2年連続で
タイトルが獲れた。しかしそれで良しとしないのが、やがて巨人をV9に導く川上哲治監督の厳しさだった。4月までに13本、4割に迫る打率をキープして迎えた5月3日の阪神戦。カウントも記憶している。1回の第一打席でフルカウントから右翼場外に2ラン。4回の第2打席に初球を右翼上段に運び、6回の第3打席は1ストライク2ボールからの4球目を右翼席へ、七回の第四打席も同じカウントから右中間へ2ラン。プロ野球史上初の4打席連続本塁打となった。
8月2日には101試合目で自己タイの40号。27日には50,51号と連発し、松竹(現DeNA)・小鶴誠さんのリーグ記録に並ぶ。9月6日に52,53号と連発し、前年に南海(現ソフトバンク)・野村克也さんが作ったシーズン52本の日本新記録を塗り替えた。シーズン記録も通算記録も、5歳下の私がすぐ」追い抜くので、野村さんには「王さえいなけりゃ」とぼやかれている。シーズン最終戦で55号までのばした。まだ24歳。連続打席本塁打も年間記録も、もっといけると思っていたが、これが最高記録となった。荒川さんについて初めて本塁打王になってから3年目。人生で一番勢いがついていた。
5.長嶋茂雄選手と王選手の誇り
彼が現役22年間でとったタイトルは長嶋選手(内)と比較して、本塁打王15(2)、打点王13(5)、首位打者5(6)、MVP9(5)、三冠王2(0)であった。長嶋選手の場合、最多安打数10、ベストナイン17、日本シリーズMVP4が優れていた。しかし、王選手の場合、「私の一番の誇りはジャイアンツのユニホームを着て、誰よりも多くの試合に出たこと。その数2831。球団記録としてまだ残っている。通算本塁打の868より、この数字の方が自分の中では重い」と述べている。彼の身長は177センチ(178)、体重79kg(76)。( )内は長嶋選手。
6.屈辱の監督時代
藤田監督の下で3年間の助監督を務めたのち、巨人軍第11代の監督となるが、5年間でリーグ優勝1回のみで監督追放となった。打倒巨人に燃えて5年後にダイエー(現ソフトバンク)の監督に就任したが、1年目は5位、2年目は下位に低迷していたとき、帰りのバスにファンが取り囲み「王、やめろ」のコールのなか、生卵が投げつけられる屈辱を受けた。これをバネに選手にも奮起を促し監督6年目に星野監督の中日を破って、日本一になった。この中心メンバーは小久保、秋山、松中、工藤、城島らであった。それにしても彼は「万事控えめ」で人柄が良いからみんなに好かれる。国民栄誉賞に輝くには「他人の悪口を言わない」長嶋、王、松井のような人物なのですね。この次にこの「履歴書」に登場して欲しいのは、金田正一、イチロー、野茂英雄、松井秀喜らです。
![]() 2023年アジア野球選手権大会に向けて台北ドームで開催された始球式に出席した王(2023年12月2日) | |
基本情報 | |
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国籍 | ![]() |
出身地 | ![]() |
生年月日 | 1940年5月20日(85歳) |
身長 体重 | 177 cm 79 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 一塁手 |
プロ入り | 1959年 |
初出場 | 1959年4月11日 |
最終出場 | 1980年10月20日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督・コーチ歴 | |
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野球殿堂(日本) | |
選出年 | 1994年 |
選出方法 | 競技者表彰 |
選出年 | 2015年 |
選出方法 | 競技者表彰 |
この表について |
王 貞治 | |
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籍貫地: | 浙江省青田県 |
各種表記 | |
繁体字: | 王 貞治 |
簡体字: | 王 贞治 |
拼音: | Wáng Zhēnzhì |
通用拼音: | Wang2 Chên1-chih4 |
ラテン字: | Wang Jenjyh |
注音符号: | ㄨㄤˊ ㄓㄣㄓˋ |
和名表記: | おう さだはる |
発音転記: | ワン・チェンジー |
王 貞治(おう さだはる、ワン・チェンジー、ウェード式: Wang Chen-chih、1940年〈昭和15年/民国29年〉5月20日[注釈 1] - )は、東京府東京市本所区(現在の東京都墨田区本所)出身の元プロ野球選手(内野手、左投左打)・監督。中華民国籍。愛称は「世界の王」[1]「ワンちゃん」[1]。
国民栄誉賞受賞者第1号(現在でも外国籍では唯一の受賞者)であり[2]、2010年10月26日には文化功労者として顕彰された。
福岡ソフトバンクホークスの取締役会長[3]並びにチームの特別アドバイザー[4]、日本プロ野球名球会顧問[5]を務める。
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- ^ a b 入試広報室 (2020年12月11日). “『Mind Charging』 第175回 | 王貞治の名言” (PDF). 正智深谷高等学校 特別コラム. 正智深谷高等学校. 2025年2月22日閲覧。
- ^ “9月5日 初の国民栄誉賞、王貞治氏が受賞”. 日本経済新聞. 日本経済新聞社 (2018年9月4日). 2020年12月19日閲覧。
- ^ “会社概要 | 役員紹介”. 福岡ソフトバンクホークス 公式サイト. 福岡ソフトバンクホークス. 2025年2月22日閲覧。
- ^ 「王会長の特別チームアドバイザー就任について」『福岡ソフトバンクホークス 公式サイト』、福岡ソフトバンクホークス、2021年10月29日 。2025年2月22日閲覧。
- ^ “組織概要”. 日本プロ野名球会 オフィシャルサイト. 日本プロ野球名球会. 2025年2月22日閲覧。