掲載時肩書 | 画家 |
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掲載期間 | 1979/01/01〜1979/01/31 |
出身地 | 香川県 |
生年月日 | 1902/12/14 |
掲載回数 | 31 回 |
執筆時年齢 | 77 歳 |
最終学歴 | 東京藝術大学 |
学歴その他 | 東京美術 |
入社 | 個展 |
配偶者 | 美校恋愛 |
主な仕事 | 2日分デッサンを1日で、マチス(絵が うますぎる)、パリ(2年)→従軍→NY(15年)、田園調布純粋美術研究所、 |
恩師・恩人 | 山地倉太(教師)、中村武平(彫刻)、藤田嗣治 |
人脈 | 黒田清輝、岡田三郎助、藤島武二、 藤田嗣治、荻須高徳・小磯良平(同級)、マチス、ピカソ、イサムノグチ |
備考 | 父:校長 |
1902年12月14日 – 1993年5月17日)は香川県生まれ。昭和期の洋画家。新制作協会創立会員。
「絵を描くには勇気がいる」とよく口にし、新しいものへ挑戦し続けた彼の画業は多くの人の心を捉えている。丸亀市にある猪熊弦一郎現代美術館(設計:谷口吉生)には、猪熊の作品が常設展示されている。建築家・丹下健三が設計した香川県庁舎の壁画は、猪熊の作である。1955年 、 活動の拠点をニューヨークに移す。この時期から画風は一気に抽象の世界に移っていった。また、この時期は、マーク・ロスコ、イサム・ノグチ、ジョン・ケージ、ジャスパー・ジョーンズなどさまざまな著名人と交友関係を深めたことでも知られる。
1.私の「芸術を愛する人」とは
私は単に絵を描くだけでなく、造形全体のことに興味を持つようになってきた。シルクスクリーンやリトグラフのような新しい平面に向かったり、彫刻などの立体の仕事、クラフト(工芸)、さらに建築も面白い。絵を描かなくても芸術を愛する人というのは、そういう心の窓を開けた人だと思う。すると新しい美しさが見えるようになってくる。人がつまらないと思うものが案外美しく見えてきたりする。
私は、美とはひっきょうバランスだと思う。「混乱」と「秩序」はどの世界に絶えずあるがこれは表裏一体のものだ。絵も突き詰めていけば、そういうことになるのではないかと思う。いい絵は、どんな乱暴な描き方に見えてもちゃんとした秩序がある。色、形、重さ、軽さ。そういういろいろなものの調和がとれている。具象にしても抽象にしても、絶対にそういうものがなければいけないと思う。
2.恩師・山地倉太先生の授業
善通寺の吉田小学校時代の山地倉太先生は今も記憶に残る恩師の一人だ。先生の教育のやり方はユニークだった。生徒が授業に退屈してきたとみると「みんな、表に出なさい」といって遊ばせてくれた。先生はまた、皆が算術をしているのに私一人を裁縫室へ連れていき「猪熊はここに生けてある花を描きなさい」という。そして図画の時間が来ると「猪熊、みんなを教えなさい」と私が先生の代わりをした。黒板に私がその日の絵を描いて、ここはこういう風にするのだとアドバイスするわけである。私はその頃には機関車の細部まできっちり描くような技術を身につけていた。先生は私に積極的に絵を描かせてくださった。良い絵は校長室に架けてくださったから、私は懸命に描いた。先生の教育は、当時大変進歩的だったので、県下の教育者や師範学校の生徒がずいぶん授業参観に来たものである。
3.マチス先生のアトリエ訪問
フランスに着いたその年(1938)、私はマチスを訪ねた。アトリエはニースの「ホテル・レジナ」にあった。正面の長い廊下には、ガラスのショーケースが並んでいて、中に等身大のギリシャ彫刻やメソポタミヤ辺の古代文明の遺品がたくさん収められ、まるで美術館に入ったような感じだった。廊下の左手、南側にアトリエや小鳥のいる部屋などが並び、右側に寝室や応接間、居間があった。ホテルのワンフロアを借り切っているらしく、広大なスペースを占めていた。
いよいよアトリエに案内されることになったが、ドアにいちいち鍵がかかっているのが不思議だった。初めてのドアを鍵で開けると、もう一つのドアがあってまた鍵を使った。アトリエへ入ってみると部屋は、目も覚めるような真っ黄色のじゅうたんが敷かれ、壁は真っ白に塗られていた。中央には大きな鉢にこの画家が描く手の形をした熱帯植物がいっぱいに青々と繁っていた。植物の緑、敷物の黄、壁の白、それにニースの明るい太陽が照り映えて、なんともマチスの絵そのもののような室内風景だった。椅子やテーブルの足などに立てかけて、部屋の至る所に無造作に描きかけの絵やデッサンが散らばっていた。一つとして額縁には入っていなかった。人物の絵などにはまわりがほとんど完成しているのに、顔の部分だけ拭き取られて消してあるものがあった。気に入らない所、悪い所を消したり削ったりしてブランクにしていた。これがマチスの方法らしかった。テンピン油とアルコールとベンジンを混ぜた液体を脱脂綿に浸して拭き取っていた。