掲載時肩書 | 歌舞伎俳優 |
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掲載期間 | 1989/08/01〜1989/08/31 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1903/12/15 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 86 歳 |
最終学歴 | 小学校 |
学歴その他 | 小学校 |
入社 | 2歳で舞台 |
配偶者 | 新橋女将仲介 |
主な仕事 | 少年劇、鰻好き、青年歌舞伎、我當、関西歌舞伎、仁左衛門、自主公演、文楽と共演 |
恩師・恩人 | 七代目幸四郎、津島寿一 |
人脈 | 新橋・とんぼ(女将)、扇雀(藤十郎)、鶴之助(富十郎)、五代目歌右衛門、白井松次郎、白井信太郎、 |
備考 | 3男・孝夫 |
1903年(明治36年)12月15日 – 1994年(平成6年)3月26日)は東京生まれ。歌舞伎役者。昭和後期の歌舞伎界を支えた立役の名優。最晩年は完全に盲目だったにもかかわらず、立役として舞台活動を続けた。戸籍上は十一代目仁左衛門の子だが、実父は安田善三郎。安田財閥の金が恒常的に流れてきたため、少なくとも財閥解体まではまったくお金に不自由しなかった。温厚篤実な性格で屈折したところがなく、高貴な役どころがぴたりとはまった。由良助役者としても知られたが、七段目では、豪遊ぶりがいかにも自然で、卑屈な部分を見せることがなかった。
1.親七光りの良し悪し
「悪し」:名跡のある家柄の子は、子役時代から大役をいただけますが、そうでない役者はその役にありつけません。傍から見ればにがにがしく、その役がくるはずの人は、私にその役を取られたことを悔しく思ったことでしょう。しかし、当の私にしてみれば年齢からいっても業(わざ)からいっても、無理な大役を振られ、大先輩の間に挟まれ、己の未熟を思い知らされる毎日の苦しさは、到底羨ましがられるような心境とは程遠いものでした。当然、評判は芳しくない。ずいぶん「大根」も食いました。幸せばかりとは言えないのです。
「良し」:役によって父は、その役を最も得意とする方のところに習いに行かせるのでした。おかげで私は、七代目中車さん、七代目幸四郎さん、十五代目羽左衛門さん、六代目菊五郎さん、初代吉右衛門さん、二代目延若さん方から、光秀、「勧進帳」の弁慶、助六、富樫、仁木弾正、盛綱、実盛、団七、伝兵衛など、そして五代目歌右衛門さん、六代目梅幸さんからも役者としての心得等、親切に教えていただいたのです。
2.弁慶を習う(七代目幸四郎のお人柄)
私が初めて弁慶をしたのは昭和11年(1936)4月、新宿の第一劇場でした。まだ32歳の時で、そのころ弁慶を勤めた役者では最年少ではないかと噂されました。3月18日から高麗屋(七代目幸四郎)のおじさんにお願いしてご指導をいただきました。
私が第一劇場の舞台を済ませて駆けつけるのと、おじさんが帝国劇場から帰宅されるのと、ほぼ同じくらいの時刻でした。それから、まず一緒に晩食をいただくのです。芸を教えてもらう上にご馳走までなるのです。思えばもったいないような話でした。おじさんは、お酒は飲まれなかったので、すぐご飯をあがってから一服され、それから稽古になるのですが、たばこがお好きだったので、食後、スリーキャッスルのマグダムという英国製の紙巻を二本ほど、ゆっくりと味わっておられました。
稽古にかかるのは夜半近い11時半ごろで、終わるのはたいてい二時半ごろ、時によっては東の空の白むころになることもありました。おいとまする時は、おじさんが自ら玄関まで送りだして下さるのです。本当にもったいなくて恐縮したものでした。人間としての生き方を教えてくださった恩人で、心から感謝しています。
3.自主公演(仁左衛門歌舞伎)
昭和30年(1955)、中村鴈治郎さんが歌舞伎役者を廃業宣言して映画界に入ったため、関西の歌舞伎は大変に淋しくなってしまいました。芝居の入りも悪くなる一方で、大阪での歌舞伎公演は目に見えて減りました。しかし、なんとか上方歌舞伎を守りたい一念で、多額の経費のかかる自主公演を企画実行したのです。
番付の表紙の絵は私が書き、中の筋書きと解説は家内が書きました。また俳優関係その他の交渉事や切符のことなどは次女が取り仕切ってくれ、番頭の伊藤友久とともに、家族の者が一つの目的で頑張った。
後援会長で元防衛庁長官の津島寿一先生は公務ご多忙の中、関西在住の偉い方々に直筆の紹介状を20数通書いて下さったので、翌日から早速その書状を持って挨拶まわりをいたしました。切符は当時、千円から千二百円でしたが、六百円にしました。当日私は紋付、袴を着けると幕外へ挨拶にでましたが、この時の、熱気と割れんばかりの拍手・声援は、一生忘れられない感激でした。