掲載時肩書 | 社会党顧問 |
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掲載期間 | 1956/08/27〜1956/09/05 |
出身地 | 和歌山県 |
生年月日 | 1887/07/28 |
掲載回数 | 10 回 |
執筆時年齢 | 69 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 三高 |
入社 | 簡易法 律相談所 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 東京女子大講師、議員、労働組合法、小作法、母子扶助法、家事調停法(提出)、社会大衆党 |
恩師・恩人 | 安部磯雄(牧師、教育、政治) |
人脈 | 吉野作造、星島二郎、斎藤隆夫、西尾末広、大山郁夫、堀江帰一、浅原健三、松谷与二郎、松本治一郎、鈴木文治 |
備考 | 父母もクリスチャン、父・弁護士 |
1887年〈明治20年〉7月28日 – 1978年〈昭和53年〉5月30日)は和歌山県生まれ。弁護士、政治家。片山は、1947年に内閣総理大臣に就任し、1949年に総選挙で落選する。1952年(昭和27年)、第25回総選挙に右派社会党から立候補してトップ当選を果たし、国会復帰を果たす。その後、右派社会党→日本社会党→民主社会党に籍を置く。中華人民共和国と太いパイプを持ち、憲法擁護国民連合を結成して1955年(昭和30年)11月に訪中団長として藤田藤太郎、遠藤三郎とともに毛沢東や周恩来との会見を行い、1957年(昭和32年)には久原房之助や松本治一郎らとともに日中国交正常化求める「日中国交回復国民会議」の代表委員を務め、1959年10月には中国建国10周年慶祝代表団団長として再び毛沢東と会見した。選挙浄化・世界連邦運動にも参加した。長く民社党最高顧問として野党の重鎮の一人と目されていたが、政界における世代交代が進む中、1963年(昭和38年)の第30回総選挙で落選、これを機に政界を引退した。首相経験者として2度の落選を見たのもこの片山だけである。
1.東京女子大で講義
大正8年(1919)ごろ、私は女子大の講義で外国の家庭法と我が民法の比較を述べて、新時代の女性の自覚を促し、さらに婦人参政権、婦人労働運動略史、禁酒法、公娼制度の廃止などを述べ、法律の定型を破って、幅広く社会制度の研究を進めていった。
若い女性が人の前に立って話をする習慣をつけるために、試験の答えは教室で一人一人立って答えてください。他の学生が聞いているときに5分以内でその意見を述べなさいと、新しい試みをしたのでした。
2.安部磯雄先生のこと
安部先生には、芯から敬服をしている。その人格と思想の両方面からである。のみならず私には先生の経歴が非常に気に入っている。同志社に入学し、神学を研究され、牧師となられたが、いくばくもなく神学研究のため米独仏等に留学を同志社から命ぜられ、この洋行が先生を社会主義者とする重要な契機となる。大正15年(1926)12月に社会民衆党は、安部先生を党首に社会民主主義をモットーとして結党式を挙げた。その時の先生の次の演説はすばらしく私も松岡駒吉君らと涙を流しながら聞いたのだった。
「政治運動は、自分の利益のためになすべきではない。人を押しのけ、自分の地位を得るための立身出世の運動であっては断じてならない。政党についても最も大切なことは費用の問題である。われわれはどこまでも浄財を持ち寄って、清浄潔白な政党を組織しよう。夢にも条件付きや、忌まわしき金を受け取ってはならぬ。同じ社会主義を目標とする者は、歩調を合わせ、勤労大衆の幸福と自由平等平和の減速に向かって進まねばならぬ」。
民主主義による社会主義の父としての信念と抱負をこのように力強く演説された。
3.斎藤隆夫氏の演説(二・二六事件の青年将校の暴力に対して)
この演説は、「反戦演説でも平和主義への演説でもないが、時の陸軍に対し、あれだけ勇敢に対抗し聖戦などとはあり得るものではない。みな勝手なことを言って戦争を起こす、戦争は極めて残酷なものあるのが本旨であって、勝つためには手段を選ばざるものだ」と、大熱弁をふるって、時の陸軍に当たったものであった。なに人も言い得ざりしことを大胆率直に議壇上で、まくし立てたので議場は割れんばかりの大喝さい、党派を超越しての大拍手、暫くは鳴りやまずという光景だった。
しかも彼は伊藤公の「憲法義解」1冊と2,3枚の新聞切り抜き、および紙片に順序を書いたメモを持っているだけで、もちろん原稿を持たず、朗読演説の型を破った。堂々たる画期的演説であった。
片山 哲 かたやま てつ | |
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1947年ごろ | |
生年月日 | 1887年7月28日 |
出生地 | 日本 和歌山県西牟婁郡田辺上屋敷町(現:田辺市上屋敷) |
没年月日 | 1978年5月30日(90歳没) |
死没地 | 日本 神奈川県藤沢市 |
出身校 | 東京帝国大学法学部独法科卒業 |
前職 | 弁護士 |
所属政党 | (社会民衆党→) (社会大衆党→) (無所属→) (日本社会党→) (右派社会党→) (日本社会党→) 民主社会党 |
称号 | 従二位 勲一等旭日桐花大綬章 法学士(東京帝国大学) 藤沢市名誉市民 |
配偶者 | 片山菊江 |
親族 | 三春重雄(義甥) |
サイン | |
第46代 内閣総理大臣 | |
内閣 | 片山内閣 |
在任期間 | 1947年5月24日 - 1948年3月10日 |
天皇 | 昭和天皇 |
選挙区 | (神奈川県第2区→) (神奈川県全県区→) 旧神奈川3区 |
当選回数 | 10回 |
在任期間 | 1930年 - 1932年1月21日 1936年 -1942年4月30日 1946年 - 1948年12月23日 1952年 - 1963年10月23日 |
片山 哲(かたやま てつ、1887年〈明治20年〉7月28日 - 1978年〈昭和53年〉5月30日)は、日本の弁護士、政治家。栄典は従二位勲一等。
社会民衆党書記長(初代)、衆議院議員(10期)、社会大衆党執行委員、日本社会党書記長(初代)、日本社会党委員長(初代)、内閣総理大臣(第46代)、民主社会党常任顧問を歴任した。