掲載時肩書 | アサヒビール元会長 |
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掲載期間 | 2011/05/01〜2011/05/31 |
出身地 | 兵庫県 |
生年月日 | 1930/02/25 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 81 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | 慶應予科 |
入社 | アサヒビール |
配偶者 | 神戸女学院娘 |
主な仕事 | 神戸ー東京ー大阪、キャバレー攻略、反骨心、本社ー大阪、ビールtop、オリオン、青島Beer、ロッテ |
恩師・恩人 | 村井勉、樋口廣太郎 |
人脈 | 牛尾治朗(1下近所)、淀川長治・中内功(中学)、安藤忠雄、鈴木修、飯田庸太郎、奥田碩、宮崎輝、田中精一、重光武雄 |
備考 | 銀行社長拒否の建白書 |
1930年 2月25日 – 2013年5月13日) は兵庫県生まれ。実業家。21年ぶりのアサヒビール生え抜きの代表取締役社長となった。1993年3月、ビールの鮮度を追求する「フレッシュマネジメント」を経営の最重要課題とすることを社長方針として社内に伝達。樋口廣太郎前社長のフレッシュローテーション活動をさらに徹底させる形で「フレッシュマネジメント活動」を全社的に実施。フレッシュマネジメント委員会を発足し、委員長に就任した。また、フレッシュマネジメント活動を支える情報インフラの整備にも力をいれた。アサヒビール株式会社の社長時代にアサヒビールを業界ナンバーワンに導いた。
1.点面作戦で突破口
1966年秋、左遷で神戸支店・販売第一課長となった私は、ジリジリと市場退潮を続ける現状にいらだっていた。ある戦略を思いつく。名付けて「点面作戦」。当時は消費者からの指名買いよりも販売店による推奨販売が主流だった。アサヒを一生懸命売る販売店を“点”とし、点を特定地域で結べば”面“になる。面の中の飲食店でもアサヒを取り扱ってもらえれば成功だ。
土曜午後から全員が自由な立場で話し合う会議を開く。まずどの地域に作戦を仕掛けるかだ。重点地域を決め、壁に白い紙を貼り販売店、飲食店を記した地図を描いていった。支店に明るさが戻ってくる。翌年2月、飲食店2軒からアサヒに替えても良いという返事をもらう。目標は3軒だ。しばらくすると1軒が決定。
3月31日の営業終了後、手分けして店の冷蔵庫、看板などを一斉にアサヒに替えた。一夜城作戦は見事に成功。商売冥利に尽きる。長年、予算割れが続いたが達成まであと一歩。67年12月30日。仕事納めの日。この時の光景を今でもはっきりと覚えている。
朝から注文の電話があるたびに「あと100箱」「あと50箱」と職場に届く。9時15分。「ありがとうございます」と受話器に向かって若い社員が頭を下げる。予算達成の瞬間だ。営業だけでなく全員が立ち上がって拍手した。「やった」「よかった」の声がフロアに響いた。この拍手はお互いの努力を讃え合うものだった。
2.キャバレー作戦で失地回復
1971年10月、東京本社から大阪支店の販売第一課長として左遷された。41歳。金城湯池だった新人時代とは様変わり。アサヒは草刈り場だ。加えてサントリーがアサヒの問屋ルートを利用して市場に参入。庇(ひさし)を貸して母屋を取られるとはこのことだ。沈滞した職場に活気を取り戻したい。しかし、こんな時にいくらハッパを掛けても意味がない。まして1年足らずで本社勤務を解任されたことはみんな知っている。自らが成果を出すしかない。一つの成果が説得力を持つ。目標を高く、達成期限も心に決めた。
当時、ビールの大口取引先はキャバレーだったので、大阪のキタにあるクラウン柴光と決めた。大阪トップクラスのお店で年間4万3000箱(1箱は大瓶20本)も売っていた。これを半年でひっくり返そう。ここの経営者にあって取引を頼んだところで情報が洩れるだけ。周辺から攻めることにした。このお店の取引金融機関は大阪興銀だと分り、そこを突破口にする。親しくなると、どうやら店内改装を計画しており、資金繰りについて大阪興銀に相談に来ているのがわかった。
金額は1億5000万円。このお金を用立てればアサヒに替えてくれるかもしれないが、アサヒにはそうした制度はなかった。そこで思いついたのが大阪興銀への協力預金だ。1億5000万円を預ければ大阪興銀は融資しやすくなるはず。お店も改装ができ、大阪興銀もメンツが立つ。アサヒは利息が手に入る。
本社を説得してOKをもらった。大阪興銀の支店長は「クラウン柴光の経営者にアサヒに替えるように勧めてみよう」と言ってくれた。取引先は金融機関からの声には弱い。自分で期限を区切った3月を迎えた。作戦は成功した。職場のみんなには話していなかったので、「クラウン柴光をひっくりかえした」と言ったら、驚きと同時に目が輝きだした。やればできるのだ。防戦一方だったので一矢を報いることができた。
3.銀行社長拒否の建白書
年も押し迫った1981年(昭和56)12月下旬、社内は重苦しい雰囲気に包まれた。全国シエアはついに10%を切るかもしれないと思われた。延命直松社長は体調不良を理由に住友銀行の磯田一郎頭取に後継人事について相談していることが漏れてきた。「また銀行からか」。多くの社員がそう思った。
社内を見渡せば生え抜きの中に立派な先輩が多くいた。そういう人こそ社長になるべきだ。私も含め幹部社員はそう思っていた。そこで同じフロアにいた6人の部長たちに声を掛けて、「(銀行出身社長の拒否を)我々の正式な意思とする。署名捺印」した。首謀者は私だ。もし、意見が通らないと、反逆者となり、会社を追われることになる。最終的に行動を共にしたのは3人だった。
翌日、住友銀行出身で上司の営業本部長に建白書を手渡す。「私たちの意思です。社長にお渡しください」。本部長が封筒を開け、目を通す。「君、これで本当にいいのか」と言うと直ぐ引き出しにしまった。
2月中旬の夕方、東京の本社で会議をしていると電話があった。「顧問の村井だけど、今、何している」「会議をしています」「そんなのやめて、今すぐ大阪に来い」。いよいよ来た。覚悟を決めた。会議を切り上げ、飛行機で大阪に。指定されたミナミの割烹料亭の扉を開けた。
よもやま話をし、ひとしきり杯を交わした後、村井勉さんの車に同乗し、伊丹のご自宅までお送りする。その車中で静かに、ゆっくりと話し始めた。「なぁ瀬戸。社長なんてどこから来たっていいんだよ。業績を良くして社員を幸せにしたら」。わだかまりが解けた。村井新社長のもとで働く気持ちが湧いてきた。
氏は、’13年5月13日83歳で亡くなった。氏は2011年5月に登場した。スーパードライでキリンビールの牙城に風穴を開けた樋口廣太郎社長の後任である。樋口氏は住友銀行出身の社長でしたが、瀬戸氏はプロパーで営業出身の社長でした。
92年に社長就任し、6年後の98年には45年ぶりにビールのシエアを業界首位に引き上げた実績を持つ。「履歴書」では、実績のない大阪のキャバレーに照準を定め、店内改装の資金ぐりを支援することで年4万3000箱の顧客獲得に成功する。これをきっかけに支店内も活気づき、次々と営業成績向上していく話が特に印象深かった。
瀬戸雄三 | |
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生誕 | 1930年[1][2]2月[3]25日[4] 兵庫県神戸市[1][2] |
死没 | 2013年5月13日(83歳没) |
職業 | 旭化成株式会社社外取締役[5]。慶應義塾評議員・理事。 |
瀬戸 雄三 (せと ゆうぞう、1930年[1][2]2月[3]25日[4] - 2013年5月13日) は日本の実業家。アサヒビール株式会社の社長時代にアサヒビールを業界ナンバーワンに導いた[6]。2009年11月現在、旭化成社外取締役[5]。慶應義塾評議員・理事。
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