澄田智 すみだ さとし

行政・司法

掲載時肩書前日銀総裁
掲載期間1993/10/01〜1993/10/31
出身地群馬県
生年月日1916/09/04
掲載回数30 回
執筆時年齢77 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他一高
入社大蔵
配偶者大蔵同期紹介娘(前田多門仲人)
主な仕事海軍・短現、銀行局長「金融効率化」、次官「第一、勧銀合併」、輸銀総裁、日銀総裁、プラザ合意
恩師・恩人福田赳夫
人脈秋山ちえ子(小学)、山際総裁、吉国一郎、藤田嗣治、荻須高徳,小原鐵五郎
備考父・陸軍中将
論評

1916年9月4日 – 2008年9月7日)は、群馬県出身。戦後、大蔵省に復帰。銀行局長時代に金融効率化行政を手掛け、太陽銀行誕生に力を発揮、1969年8月から1971年6月にかけて大蔵事務次官を務めた。「大物事務次官」の要件とされる2年間の任期を全うする。同省退官後は、日本輸出入銀行(輸銀、現・国際協力銀行)に総裁として天下り、輸銀退任後には日本銀行に進むなど、いわゆる「ロイヤル・ロード」を歩み続けた。大蔵省局長級以上の人事に関しても、澄田 – 竹内道雄の大物次官経験者ラインが、大きな影響力を及ぼしていたとされた。第25代日本銀行総裁。

1.藤田嗣治、荻須高徳の両画伯
昭和30年(1955)、ベルギー駐在からパリの日本大使館に転勤を命じられた。その頃は藤田嗣治、荻須高徳の両画伯がパリで活躍しておられた。私の仕事は仏貨債の返済交渉などで、それなり忙しかったが、両画伯の謦咳(けいがい)に接し、絵を見ることを教えていただいた。
 藤田画伯は常に日本人社会から遠ざかっておられ、大使館のナショナル・デー(天皇誕生日)など日本人の集まりにはお見えにならなかった。ところが東京高等師範付属中学の先輩として、パリにおける中学の同窓会だけには出てこられた。興に乗ると、ご自身が実際に付き合っていたマチスやピカソのことや、印象派以後のフランス画壇の裏話を教えてくださった。非常に興味深く、ワクワクしながら聞いたものだ。フランス女性を2番目の奥様とし、フランス国籍を取得、日本人社会との付き合いをあまり好まなかった藤田さんが、中学時代のことはとても懐かしがっておられた。既に仏政府からレジョン・ド・ヌール勲章を受けていた。
 荻須画伯は藤田さんよりは日本人との付き合いをしておられた。私たち若い者は、モンマルトルの一画にあった荻須さんのアパートをよくお訪ねし、描きかけの絵などを見せていただいた。荻須さんの絵はパリやパリ周辺の風景に徹していた。荻須さんの作品は既に日本で評価されており、日本から来た人の中には、荻須さんが描いた絵を買って帰る向きもあった。ただ、その割に画伯の家計は豊かということもなく、質素な暮らしをしておられたのが印象に残っている。

2.田中角栄大臣、疾風の行動力
昭和39年(1964)6月16日の午後1時頃、私は国会の委員会に出ていて、建物の揺れを感じた。新潟地震である。30分もたたないうち、田中大蔵大臣から電話で呼び出された。「今から新潟に行く。君も一緒に来てくれ。ヘリコプターを待たせてある」という。私は当時、公共事業や災害復旧の予算などを担当する主計局次長になっていた。今から現地に行けば当然、泊ることになるが、着替えも何もない。とるものもとりあえず、蔵相、蔵相秘書とともに大蔵省を出た。
 自衛隊の市谷駐屯地でヘリコプターに乗り込み、途中、福島県の郡山駐屯地で給油して新潟に向かった。新潟に近づくと、信濃川を挟んで新潟市の反対側の岸から、煙の柱が空中高く立っているのが見えた。火災を起こした石油タンクの煙がたなびいていたのだ。午後5時頃には、新潟市内の小学校の校庭に着陸する。地面はかなり地割れを起こしていた。さっそく田中さんと一緒に車で市内を見て回った。コンクリートの建物が横倒しになっていた。昭和大橋が真中で折れて、橋げたの半分が川の中に落ちていた。

3.銀行局長で「金融の効率化」に取り組む
昭和41年(1966)6月に銀行局長を命ぜられた。私は金融機関に適正な競争原理と取り入れ、競争を通じて経営を効率化する必要があると考えた。そこで3つの側面から進めることにした。第一に、適正な競争にふさわしい土俵づくり。これは金融制度や業務分野をどうするかである。第二に、その土俵の上で良い取り組みさせるための条件を整えることで、店舗の規制や経理基準などを見直す。第三が良い力士を育てて好勝負をさせるための環境づくりで、合併促進のための法整備や預金保険の創設を考えた。

澄田 智(すみた さとし、1916年9月4日 - 2008年9月7日)は、日本大蔵官僚銀行家。第25代日本銀行総裁大蔵事務次官ラザール・フレール顧問を歴任。群馬県出身。

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