潮田健次郎 うしおだ けんじろう

その他製造

掲載時肩書住生活グループ前会長
掲載期間2008/03/01〜2008/03/31
出身地東京都
生年月日1926/06/04
掲載回数31 回
執筆時年齢81 歳
最終学歴
小学校
学歴その他専門学校入学者検定(専検)の勉強
入社父建具 小売商
配偶者26歳で4歳下女性と
主な仕事20歳まで結核療養、日本建具工業>製造業、フランチャイズ化、経営支援、物流改革、ビルサッシへ、INAXと住関連Gへ
恩師・恩人米倉豊史(専門紙・経営)、納口昭二
人脈三国陽夫、江川初太郎、朝香鐵一、中井川正勝、川上嘉一(ヤマハ)伊藤雅俊、飯田亮、高橋高見、前野徹、伊奈輝三、
備考実印持歩き
論評

大正15年(1926)-2011年4月16)東京生まれ。小学校卒で家業の建具店を手伝う。昭和24年(1949)日本建具工業(現:住生活グループ)を創設し、社長。同46年(1971)トーヨーサッシへ商号変更、平成4年(1992)トステムへ商号変更。同10年(1998)会長。同13年(2001)INAXトステム・ホールディングスに商号変更し、純粋持株会社に移行。同16年(2004)住生活グループに商号変更。同19年(2009)会長退任。氏は文章が平易で分かり易く書いてくれており、説得力があった。

1.財務諸表から経営戦略を
潮田は小学校6年のときに結核を患い、二十歳近くまで約8年間、サナトリウムで過ごしたので、学校は小学校しか出ていない。しかし、読書好きでもあったので療養中にたくさんの本を読み、また、退院してからは専門学校入学者検定(専検)の勉強をした。
また、日本生産性本部(現:社会経済生産性本部)や日本能率協会などのセミナーに積極的に参加し、苦労しながら財務分析や工程管理、マーケティングなど経営の基礎を学んだことがのちの経営に役立った。
 一例では関東圏に絞り込んだ販売戦略であった。それは、少ない経営資源を分散させず、一点に集める必要があり、まず最大の市場で決定的なシエアを確保してから、徐々に販路を広げていくことにした。そこで戦略策定に、不二サッシなど同業大手の有価証券報告書を集め、自ら分析すると販売管理費の負担が重いという傾向に気づいた。原因は、大手企業が事業を始めると、すぐ販売拠点を全国に展開するからだと判る。工場が一ヵ所にしかない段階で、わずかな量のサッシを全国で売れば物流費が非常に高くつくは当たり前だ。弱小の企業が同じ売り方をしていたら絶対に勝てないと思った。
彼にとって経理・財務の基礎知識が経営戦略策定に大きく役立ったことは間違いない。しかし、彼のように現場知識も同時に知っていないと適切な判断ができないことはもちろんである。そして次のように解説している。
「工場も千葉県野田市に集中させた。野田市は関東圏の中心に位置し、物流面で優位に立てる。工務店の要望にきめ細かく対応するためにも、生産拠点は消費地に近い方がいい。取り扱う製品も最初からビル用サッシを手掛けず、住宅用に絞った。やはり戦力集中のためだ。
 財務分析によって大手企業は固定資産の回転率が低いこともわかった。そこで形材から一貫生産する工場を野田市の七光台につくり、操業率を上げるために四班交代制にした。これで鉄鋼大手の高炉のように二十四時間連続で操業できるようになった。同じ設備投資額で他社の三倍の製品を生み出す狙いである。財務諸表は戦略や戦術を練るうえでヒントの宝庫だった。」

2.価格競争を避ける
昭和40年(1965)代の日本は住宅景気に沸き、同47年(1972)度には新設住宅着工戸数が史上最多の百八十六万戸に達した。アルミサッシ業界も増産を重ねていたが、大きな落とし穴が待ち構えていた。同48年(1973)の第一次石油ショックである。原油相場につられるようにアルミ地金などの原材料価格が急騰した。するとサッシの値上がりを見込んだ卸や小売業者が買いだめに走る。最初は実需と思い込みみんなが一斉に在庫を増やすことになった。
 ところが、仮り需要が膨れ上がった後に、住宅着工が落ち込み、同49年(1974)度の着工戸数は前年度比で約三割減になってしまう。このため膨れ上がった在庫は減らず、業界全体が在庫を減らすために熾烈な安売り競争が起こった。その結果、翌年度には業界のほとんどの企業が赤字に転落してしまった。このとき潮田は価格競争の対応について次のような転換の決断をしたと語っている。
「泥沼の乱売合戦を経験した私は「無益な価格競争はもうやめよう」と決意した。コスト競争力で勝っている分を、顧客の役に立つサービスやシステムの構築に振り向ける戦略を打ち出したのである。
 その一つがTFC(トーヨーサッシ・フランチャイズ・チエーン)と名付けた販売店の経営支援策だ。加盟した販売店には会計や在庫管理、営業手法などの経営ノウハウを提供した。販売店の決算書も当社で作成し、利益率や経費率は加盟店中の何位か、改善すべき点は何かを伝えた。
 当時は営業マンも置かず、工務店からの注文を待っているだけの販売店が多かった。TFCへの加盟で攻めの営業に転じる販売店が増え、当社のシエアも高まった。」

3.物流改革
1970年代には物流改革にも取り組んだ。名古屋にある直営の営業店で見た異常な光景がきっかけだ。商品が通路まで山と積まれ、朝から総出で運ぶ作業に追われている。店長に聴くと「営業マンは品種の多さに振り回され、販売する余力がない」と言う。
 商品の種類は一万種を超えていたのに物流システムが不備だったことが原因だ。倉庫が全国に分散し、どこに何があるのか分からない。営業店で必要な品種を生産している工場が遠くにあると、少量では出荷してくれないのでトラック一杯分を買い付ける。在庫は膨らむ一方なのに、建具店などから受注する品種はないという混乱状態だった。
 当時専務だった兄の猪一郎に相談すると、兄は物流に詳しい大学の先生に、「在庫を集約すれば欠品問題は解決する」という助言を受けて来た。そこで76年、茨城県下妻工場の敷地内に延べ床面積約2万7千㎡の関東物流センターを建設した。これを機に、代理店や販売店から流通在庫をすべて売値で買い取った。2,3割はホコリをかぶった古い商品だったので、不良在庫が一気にさばけた代理店や販売店は大喜びである。当社には一時的に大きな損失となった。だが、代理店や販売店が在庫に煩わされなくなったので、やがて当社の営業力も強くなった。前記のTFCや物流改革のように顧客の利益を創造することが自社の利益に繋がることになった。。

Wikipediaに情報がありません。
[ 前のページに戻る ]