渡邉光一郎 わたなべこういちろう

金融

掲載時肩書第一生命保険特別顧問
掲載期間2025/12/01〜2025/12/31
出身地静岡県裾野市
生年月日1953/04/16
掲載回数30 回
執筆時年齢72 歳
最終学歴
東北大学
学歴その他
入社第一生命保険
配偶者郡山支社同僚
主な仕事町田支社営業、本社外務教育部、生保労連書記長、 異業種大手3社と提携、生保危機、株式会社に転換、東北大地震
恩師・恩人太田忠、森田富治郎、斎藤勝利
人脈石川哲也、櫻井孝頴、鷲尾悦也、斎藤宏、平野宏志、松井秀文、白井勲、野中隆史、竹内克伸、稲垣精二、中西宏明
備考祖父は村長(母側)と村議会議長(父側)のコンビ
論評

氏は生命保険、損害保険業界から「私の履歴書」に登場した、石坂泰三(第一)、弘世現(日本)、川井三郎(共栄)、川崎大次郎(第百)、新井正明(住友)、渡辺文夫(東京海上)、後藤康男(安田火災)、石原邦夫(東京海上)に次いで9人目である。米国の生命保険会社業界と日本を比較紹介してくれている。日本の生命保険会社は40数社に対し、米国では大小約700社。その各社が日々、M&A(合併・買収)を通じた勢力争いを演じている。日本の生保市場の異質ぶりをこの「履歴書」で紹介してくれていた。

1.社内報で得た「会社全体」を見る目
3年半に及んだ町田市や郡山市の営業現場での勤務を終え、1979年秋、初めて本社勤務の辞令が出た。仕事の中身は、会社のあらゆる施策の営業現場への伝達や、現場で起きている好事例を本部へのフィードバックというつなぎ役だった。
具体的に仕事の中心となったのは毎月の社内報の発刊で、タイトルは「相互通信」といった。内容は、投入する新商品の説明、生命保険に関連する金融監督当局の新施策や税体系。加えて社内の営業成績、優秀な営業職員の体験談、新たな取引先の開拓手法・・などである。写真や図表、漫画までふんだんに盛り込み、多く読んでもらえるよう工夫した。
この仕事には隠れた役得もあった。北海道から九州まで津々浦々の支社を自由に回り、支社長や営業職員への取材ができるのだ。私は若い時に「相互通信」の編集に携わり、会社の戦略の全体像を把握したり、全国各地を行脚したりした経験は、自分のその後の会社員生活で大いなる糧と自信につながったのだ。

2.労働組合の書記長に
1986年夏から6年にわたって、第一生命保険本体から離れて、労働組合の執行部にいた。当社の場合、2組合が並立しており、一本化に向けた地ならしが私の役割だった。私が最初の2年間務めた第一生命内勤組合(通称、内組)の書記長などとしての使命は、営業職員で構成する第一生命外勤組合(外組)と、いかにして組合統合を果たすか。全国の支社や営業部をまわり、いわゆる「オルグ(宣伝・勧誘活動)」に注力した。
 日本生命保険など他の生保各社は女性中心だったが、第一生命は伝統的に男女混成だった。だから「外組」の組合幹部にはこわおもてのベテラン男性も多く、手ごわかった。それでも膝詰めで、ときにはお酒を酌み交わしながら上部団体の全国生命保険労働組合連合会(生保労連)の方針のもと、時代の変化に対応するための労組一本化のメリットを必死に説いた。私は30歳代前半に過ぎなかったが、年上の方の懐に入り込み議論を続けた。何とか組合が一本化したのは91年になってからだった。

3.生命保険と損害保険との違い
生保は営業職員が所属する会社の商品しか取り扱わない「1社専属制」。これに対して損保業界では咋今、社会問題にもなった「乗り合い代理店」が複数の損保会社の保険を販売していた。1992年、大蔵大臣の諮問機関である保険審議会は「新しい保険事業の在り方」と題する答申を出した。この保険業法改正に向け募集面での対応を協議する生命保険協会の専門委員会(業協専)の委員長に指名された私は、問題解決に取り組んだ。

4.銀行・損保・外資と戦略提携
1990年代後半から2000年代初頭は、金融界、あるいは日本経済全体の危機だった。いかにして難局を突破するか。第一生命は他社との提携や統合を含め、あらゆるシミュレーションを水面下で練っていた。その結果、「3つ」の大型提携に踏み切ることになる。
(1)1998年10月3日、「興銀・第一生命が包括提携」は日経新聞のトップ記事になった。我々が興銀(現みずほ銀行)の増資を引き受ける。そして当社の基金に興銀が拠出し、互いに、財務基盤を強化する。
(2)損保業界2位の安田火災海上保険(現損害保険ジャパン)との提携で、「互いの販売チャネルを利活用できる」、当社の「生涯設計」戦略にも沿うものとなった。
(3)アメリカンファミリー生命保険との提携で、「がん保険」にも進出することができた。アフラックは圧倒的に強い日本国内最大手であり、自前で開発するより、当社の営業職員がアフラックの商品を販売し手数料収入を得る方が得策と考えた。

5.相互会社から株式会社への転換(株式会社化)
生命保険業界を取り巻く平成期は苦境続きの30年だったというほかない。バブルが崩壊し、潤沢だった保有株式や不動産の含み益は激減した。経済の先行きを映す金利が低下した結果、「逆ザヤ」が膨らみ生保危機に発展。経営破綻が相次いだ。私は中堅幹部として、やがて経営の一角を担う役員の一人として、この閉塞状況を打開するすべを悩み続けた。そしてある腹案にたどり着く。
 それが、契約者同士の助け合いを旨とする保険会社にのみ認められている相互会社から、株式会社への転換だった。2004年7月、第一生命保険は森田富治郎社長が会長に就き、後任に斎藤勝利専務が昇格した。この斎藤社長の決断で、株式会社化を水面下で準備を始め、世に表面化したのは、07年末の日経の1面トップのスクープだった。09年6月の総代会に諮って承認を得る。10年4月に株式会社に転換し、同時に東京証券取引所に上場するのが基本スケジュール。第一生命に初めて株価という「値段」がつくのだ。
 ここで、相互会社が株式会社に転換する仕組みをなるべく簡単に説明したい。まずなにより重要なポイントは、これまでの契約内容に変更は「一切ない」ということだ。その上で、保険契約の内容や加入期間に応じて契約者に株式を割り当てる。割り当てが1株に満たない契約は現金で代替する。1株以上割り当てられる契約者は約306万人。このうち半数以上が株式でなく現金で受領した。上場時の株主数は約137万人。NTTを上回る最大の株主数を抱える企業になった。

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