掲載時肩書 | 松竹新喜劇座長 |
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掲載期間 | 1971/05/18〜1971/06/13 |
出身地 | 京都府 |
生年月日 | 1906/06/07 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 65 歳 |
最終学歴 | 小学校 |
学歴その他 | |
入社 | 株屋 |
配偶者 | 浪花千栄子、九重京子 |
主な仕事 | 淡海一座、脚本、松竹家庭劇、24歳(2代目襲名)、寛美退座・復帰、松竹新喜劇650本、 |
恩師・恩人 | 曾我廼家 十吾 |
人脈 | 曾我廼家五郎・十郎、藤山寛美(後継者)、大谷松竹社長・白井会長、小島慶四郎、 |
備考 | 父・初代天外 |
1906年〈明治39年〉6月7日 – 1983年〈昭和58年〉3月18日)は京都生まれ。松竹新喜劇を創立した上方を代表する喜劇俳優、劇作家。女優の浪花千栄子は元妻。元松竹新喜劇女優の九重京子(渋谷喜久栄)は後妻。楽屋では、原稿用紙、ノート類、演劇専門書が山の様に積まれるなど学究肌の面があった。1956年(昭和31年)に十吾は退団するが、自身の弟子的存在で、以後、人気俳優となる藤山寛美とのコンビで人気を呼ぶ。
1.戦後・食糧難時代の農村巡業
昭和22年(1947)正月興行では、福知山線の三田から、バス、トラックと次々に乗り換えて、着いたところは刈り取られた後の空き田んぼであった。「ほんまにここで芝居をしまんのか?」。案内人は「待ってなはれ」と言い、村の若い連中を集めて作業を始めた。丸太に板切れ、ムシロなどを集めたかと思うと、みんなでアレヨアレヨといううちにとうとう劇場らしき一軒をこしらえてしまった。しかし、こちらにもメンツがある。
「はばかりながら東京、大阪の大劇場を踏んできた人間や。これではあんまりやないか」と言い出した途端、酒が一升、かまぼこ、干物などを並べて「何もないけど、これで一杯やっとくなはれ」と、私の眼のまえへ差し出した。それを見た途端、一座を押さえて、「やりまひょ、芝居をしまひょ。私はこのようなことを待ってたんや」と承知した。情けない、哀れな座頭もあったものである。
田んぼへ直接に掘ったのは楽屋の囲炉裏、そこへ炭を一俵、ガラガラと入れて「さぁ、おあたり下さい」である。それが向こうの部屋でも、こっちのすみでも、炭の饗応である。その頃の都会では一片の炭も不自由で、カラケシさえも大切な時であるから、まるで大名気分だった。
2.戦後の喜劇団
戦後は五郎劇団、それに私たちがやっていた松竹家庭劇団だったが、戦争に敗れると同時に日本の喜劇団もなくなったと言ってもしかりである。エノケンさん、ロッパさんは映画に、東京の喜劇団はストリップと合同したり、ほとんど喜劇はなかった。しかし、大阪には若い喜劇人がたくさんいた。
昭和23年(1948)12月、大阪の中座に戻って「松竹新喜劇」と名付け再出発した。当時の俳優といえば曾我廼家大磯、小次郎、泉虎、それに若手として明蝶、五郎八など。そこへ私たちの旅の若い連中(寛美)が加わった。
3.浪花千栄子さんとの破局
やり繰り算段暮らしからやっと抜け出したころ、劇団の大きな失策が現れた。それはお恥ずかしいことだが、私自身のことである。というのは私の先妻、浪花千栄子とともに劇団を続けながら来たのに、私が・・・どうも言いづらく、えへへへ・・・というより仕方ないが・・申し上げる。私に恋人ができたのである。相手は一座の若い女優、九重京子で、松竹から「あの子をなんとか売り出してくれ」と頼まれた女優である。それが私と・・というのであるから浪花さんの怒りは人一倍。今から22,3年前、古いこととはいえ、浪花さんの気持ちもよくわかる。
子供が生まれた。それも長男、浪花さんは怒り心頭に発して「どうする」というが、子供は「オギャー、オギャー」と泣きながら「初めてのあなたの子ですよ」と言わんばかりに私の愛情を求めているような感じがする。私にとっては、生まれて44歳になって初めて、子供らしい子供を得たのであるから、もう何もかも捨てても構わないという気持ちにならざるを得なかった。甚だ浪花さんにはお気の毒だったと思う。それからイザコザがあり、モヤモヤがあり、ついに浪花さんとは別れなければならなくなった。
さて、別れてみた二人、浪花さんは舞台にテレビに映画に、私も舞台に脚本、その他のことでお互いに生活はその方が豊かになったと言えるかもしれない。