掲載時肩書 | 随筆家 |
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掲載期間 | 1964/06/11〜1964/07/10 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1892/10/05 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 日本興銀 |
配偶者 | T子、後・小唄師匠 |
主な仕事 | 田園都市㈱、田園調布球場、油絵・春陽会、東宝宝塚劇場、息子の死、明治村、 |
恩師・恩人 | 小絲源太郎、和田英作 |
人脈 | 秦豊吉、芦田均、菊池寛、五島慶太、小林一三、尾上菊五郎、森岩雄、久保田万太郎、大宅壮一 |
備考 | 渋沢栄一の3男、武之助(長男)正雄(次男) |
1892年10月5日 – 1984年2月15日)は東京市出身の実業家・文化人。欧米で住宅事情を学び、設立間もない田園都市株式会社に取締役として入社する。この会社は、田園調布や洗足田園都市の計画的で大規模な宅地開発を行い、その開発地区のための鉄道敷設・電力供給、多摩川園遊園地の運営も行った。その後は、いくつかの会社で役員を務めた。敗戦後は、GHQによる公職追放のためそれらの職を辞し、趣味の世界に生きた。随筆の執筆、絵画、俳句、長唄、小唄などをよくした。また、放送界の委員などを務めた。
1.明治の渋沢栄一宅
日本橋郵便局の前を通って兜橋を渡ると、左の橋袂に兜神社と日証館がある。大正12年(1923)の関東大震災までは、そこにベニス風の二階建洋館がクリーム色の影を川水に落としながら、あたりに異国情緒を漂わせていた。それが私の父渋沢栄一の家で、私は明治25年(1892)にここで生まれたそうである。
この家は室内装飾も家具調度も鹿鳴館趣味だった。むろんあれほど豪華ではなかったが、応接室の壁には敷物の布が張られ、天井からはガラスのシャンデリアが華麗な尾をさげ、夜はガス灯が文明開化の光を投げかけていた。二階には舞踏室、吸煙室、婦人室などがあった。舞踏室の床は寄細工になっていたが、私の物心がついて以来、一度も舞踏会が開かれたことはなく、いつも椅子、テーブルなどの物置にされていた。ある日、私が小学校から帰って「ただいま」を言いにいくと、化粧台の鏡を前にして、洋装の母が香水のかおりに包まれていた。女の洋装など珍しい時代だったから、母は別の人みたいに見えた。おおかた鹿鳴館に夜会でもあったのだろう。
2.明治43年(1910)、一高の風景
当時の一高は一部(法文科)、二部(理工科)、三部(医科)に分かれていた。一部のフランス法科は志願者が少ないので、ほかの科よりも入学しやすかった。そこへ私は入り、兄の正雄は英法三年になっていた。
一高は本郷彌生ケ岡にあった。寄宿料は月1円で、賄い費は月6円、一日20銭で飯と味噌汁とコウコは何杯でも替えられた。校内にホールと称する憩いの一室があった。和洋の菓子数種類と麺類などを売っていた。ウドンやソバのモリもカケも3銭で天麩羅が7銭。寮に出張してくるバリカン刈りは5銭だった。
3月1日の記念祭は東京でも有名な年中行事となっていた。女人禁制の寄宿寮へその日は若い女性も多数押しかけてくるから寮生は張り切った。東、西、南、北、中、朶(だ)6寮の自習室はそれぞれ趣向を凝らした飾り物をかざる。理工系の部屋は手の込んだ模型細工でベニスの「ため息の橋」などを作り、窓の灯の投影する川水にゴンドラを浮かべおいたりする。
それに引き換え法文科の連中は時も金も手もかけずに、思いつき一つで人をアッと言わせることばかり考えた。自習室のドアに「偉大なる暗闇」と大書きして、覗きの「窓口」を開けているのである。中は真っ暗だ。
3.父の論語会
父は親類の青少年を招集して、よく「論語会」を催した。招客用の大書院二間をブッコ抜いて30数人が居座れる。時代劇の大評定でも始まりそうな光景だ。大きな床の間の前に宇野哲人先生。その隣に父が座る。そして先生の講義について、父が体験上の注釈をつけ、それから質問や討論に移るという順序だった。
私は少人数の時には宇野先生に、「論語のような至上命令的格言は、経験のない僕には面白くないんです。もっと人間の悩みを書いて、生きた人生を教えてくれる創作の方が尊い感じがします。その意味でトルストイやイプセンやメーテルリンクなら熱が持てるんです」など聞いた風なこと言ったものだ。また、歴史が出ると、わざと逆説を唱えたりした。今から考えると、どうも私は温室内の狂い咲きだった。