掲載時肩書 | 参議院議長 |
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掲載期間 | 1975/01/01〜1975/01/31 |
出身地 | 神奈川県 |
生年月日 | 1901/05/14 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 74 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | |
入社 | 大日本 人造肥料(日産化学) |
配偶者 | 妹の友(婦人科医娘) |
主な仕事 | 七尾工場、兵役、闇屋商売、五日会、兄の追放で代議士、スポーツ団体、参議院議長(重宗氏の後)、仲人150回 |
恩師・恩人 | 杉浦重剛、松村謙三 |
人脈 | 苫米地義三、尾崎行雄、石川一郎、安西正夫、三木武吉、東竜太郎、高石真五郎、迫水久常、青木一男 |
備考 | マラソン兄弟、兄一郎:蛇嫌い、曽祖父の妻(二宮尊徳妻の妹)、父・県会議長 |
1901年(明治34年)5月14日 – 1983年(昭和58年)10月16日)は神奈川県生まれ。政治家。参議院議長。1975年(昭和50年)7月4日の参議院本会議で、政治資金規正法改正案の採決の際、可否同数となり、議長決裁によって可決とした。議長が決裁権を行使したのは参議院史上初めてであり、国会史上では1907年以来68年ぶりのことであった。後年河野は「本来は議長としては否決するのが正しい方法だが、先に可決された公職選挙法改正案との関連性が強く、政治資金規正法改正案を否決してしまった場合には両法の間に矛盾が生まれてしまう事を危惧してやむなく可決とした」と述べている。実兄:河野一郎の息子が河野洋平である。
1.杉浦重剛先生
早稲田大学に入りマラソンばかりしていると、おやじが心配して杉浦重剛先生の塾に兄と一緒に入れと言った。塾は称好塾といって新宿角筈の先生の自宅の屋敷内にあった。十畳の部屋8つに4人くらいずつ、合わせて35人ほどが寝食を共に暮らしていた。
杉浦先生は、世間ではすぐに日本主義思想を鼓吹した右翼の巨頭のように言われるが、全く進歩的で視野の広い人であった。また大変な秀才で、英国留学の第二回生として渡英し、向こうでも抜群の成績だったという。塾も漢学塾のように思われているが、実は英語を非常に奨励した。先生の御母堂の命日が塾の記念日だったが、その日の最大行事もシェイクスピアか何かの英語劇だった。私は得意の方ではなかったが、劇で大いに活躍したのは三津田健らで、彼はとうとうその道に進んだ。また先輩には、大月桂月や巖谷小波という人たちがいた。先生の決まった講義というものはなく、毎晩夕食の後に出てこられて30分とか1時間とか輪になって雑談をした。
2.選挙演説で「土地と女房を大事に」が好評
私が初めて演説らしいものをしたのは昭和10年(1935)で、兄が大弾圧を受けた時であった。好評だった演説は、「自由経済の下では、物の価値というものは時代とともに上がったり下がったりする。しかしどんなに年月がたっても、決して下がらないものが二つある」。
一つは、土地だ。土地は絶対に下がらない。開拓だ、開墾だといっても限度があって供給は増やしようがないのに、一方欲望は次々と膨らむから需要は伸びるだけだ。だから土地は決して売ってはいかん。土地を売る人は貧乏保険付きだ。
もう一つ、上がり放っしで下がらぬものは女房の相場だ。若いうちの女房も悪くはないかもしれないが、まだまだだ。だんだんシワが出てきて世間が梅干ババぁなんぞと言うようになると、ますます女房の値打ちが出るんだ。この年寄りが言うのだから間違いはない。小田原に行って梅干を買っても、シワのあるほど値は高い。女房だって同じことだ。
土地と女房、この二つをしっかり両脇に抱えて大事にしてくださいよ。
3.兄・河野一郎の性格
私が最も影響を受けた政治家といえば、やはり兄一郎である。世間で言われるのといささか違う男で、バカが付くぐらい正直者だったということだ。内証ごとは一切できず、腹の中は全てさらけ出してしまう。そして後で「これは言うなよ」と付け加えるが、大抵は後の祭りだった。ただ正直すぎ潔癖すぎて、悪いやつは徹底的にとっちめないと気が済まないところがあり、誤解を招いたと思う。相手の頬っぺたを殴るぐらいならいいが、首根っこをぎゅうぎゅう締め上げたり、心臓に耳を当ててコトが切れたかどうか、確かめるまでやらないと気が済まない。そういう意味では、誤解や恨みを受けやすい兄であったかもしれない。
河野 謙三 こうの けんぞう | |
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1952年 | |
生年月日 | 1901年5月14日 |
出生地 | 日本 神奈川県小田原市成田 |
没年月日 | 1983年10月16日(82歳没) |
出身校 | 早稲田大学専門部商科[1] |
前職 | 大日本人造肥料社員[1] 日本体育協会会長 日本陸上競技連盟会長 |
所属政党 | (民主自由党→) (自由党→) (緑風会→) (自由民主党→) 無所属 |
称号 | 従二位 勲一等旭日桐花大綬章 参議院永年在職議員 商学士 |
親族 | 兄・河野一郎 甥・河野洋平 義子・河野顕子 孫・河野陽子 大甥・河野太郎 |
第11-12代 参議院議長 | |
在任期間 | 1971年7月17日 - 1977年7月3日 |
天皇 | 昭和天皇 |
第10代 参議院副議長 | |
在任期間 | 1965年7月30日 - 1968年8月3日 |
参議院議長 | 重宗雄三 |
選挙区 | 神奈川県選挙区 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 1953年5月3日 - 1983年7月9日 |
選挙区 | 神奈川県第3区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1949年1月24日 - 1952年8月28日 |
河野 謙三(こうの けんぞう、1901年(明治34年)5月14日 - 1983年(昭和58年)10月16日[2])は、日本の政治家。従二位勲一等旭日桐花大綬章。
参議院議員(5期)、衆議院議員(1期)、参議院議長(第11・12代)を歴任した。