掲載時肩書 | 太陽神戸銀行相談役 |
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掲載期間 | 1982/07/21〜1982/08/17 |
出身地 | 広島県忠海 |
生年月日 | 1907/08/02 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 75 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 大蔵省 |
配偶者 | 県知事娘 |
主な仕事 | 大蔵次官、住宅公団、長銀、日本相互、太陽銀行、太陽神戸銀行 |
恩師・恩人 | 賀屋興宣、長谷川重三郎 |
人脈 | 高見順・中川宋淵・佐々木直・長谷川周重(一高同期)、池田勇人(同郷)、森永貞一郎、福田赳夫、石野信一 |
備考 | 皇室財産の査定人、俳句 |
1907年8月2日 – 2006年6月20日)は広島県生まれ。大蔵官僚、実業家。元大蔵事務次官。1968年12月、太陽銀行の頭取就任。商号は筆頭株主が太陽生命だったことに由来する。第一銀行頭取の長谷川重三郎の尽力により三段跳で相銀から都銀入りした。1973年、大蔵省の後輩・石野信一らと太陽神戸銀行合併を実現させ会長。のち、さくら銀行顧問、三井住友銀行顧問を務めた。
1.終戦直後の予算編成
昭和20年(1945)3月、大蔵大臣が石渡荘太郎氏から津島寿一氏に代わり、次官も更迭の余波で、私は陸軍から大蔵省へ復帰、主計局第一課長となった。8月15日は天皇の玉音放送を聞いた後、みんなで宮城前へ行った。そこには多数の男女がぬかずき、すすり泣きの声が絶えなかった。
終戦後、東久邇内閣ができ、津島寿一氏が再び蔵相となった。戦後財政経済企画室が設置され、戦後の問題の研究が始められた。私は没になった予算編成方針を改めて書き直した。敗戦の虚脱感を振り捨て、再出発の決意を込めたつもりであった。
当面の大問題は昭和20年度の予算であった。この予算は戦争の遂行を前提としたものであり、敗戦により、そのまま実行することはできない。総額470億円のうち、70%は戦争関係の経費であり、一方、戦後の占領関係、復員関係、経済復興などで新しい支出が必要になっている。そのためには、予算を根っこから組み直さなければならなかった。
2.警察予備隊を創設せよ
昭和25年(1950)6月25日は日曜だった。この日の夜8時ごろ、私は小田急線の下北沢の駅で、北鮮軍の38度線突破のラジオニュースを聞いた。「これは大変なことになる」と直感した。ソウルの占領は、その3日後だった。それから2週間後の土曜日、岡崎官房長官からの電話で「すぐ首相官邸に来い」という。駆け付けてみると、GHQからの指令で「7万5000人の警察予備隊を創設し、海上保安庁職員を8000人増員せよ。その経費には国債の償還費をあてる」というものだった。
この指令を聞いて、私は決して唐突という感じはしなかった。その前年の秋に西ベルリン封鎖の事件があったし、東独の5万の特別警察隊に対抗して、西独でも1万の重装備の国境警察隊が作られていた。しかも、この年の正月には、マッカーサーが「日本は戦争を放棄したが、自衛権は放棄していない」と声明している。世界情勢は変わりつつあり、この指令も決して一夜漬けのものではなかった。
いずれにせよ、GHQの指令は実行するしかなかった。
3.軍人恩給は戦傷者、戦没遺族も対象に
講和条約は、昭和27年(1952)4月28日の午後10時半に発効した。米国が条約の批准書を寄託した時刻の日本時間である。この日本の独立後まもない5月2日には晴れて戦没者の追悼式が新宿御苑で行われた。両陛下が親臨され、黙とうの後、遺族代表1300人にお言葉があった。皆、何やら長いわだかまりが解けた思いであった。
独立回復で、それまで抑えられていた戦没者、戦傷者、遺族に対する処遇問題が火を噴いてきた。まず戦没者に対し一柱5万円の弔慰金が交付公債で支給された。遅ればせながら“お灯明料”といわれた。長い間停止されていた軍人恩給も復活することになり、審議会が設けられ、私はその幹事になった。
軍人恩給の復活は、決して職業軍人から言われたのではない。実体は戦傷者、戦没遺族会に対する恩給扶助料の問題であった。これらの人たちは、敗戦後、GHQの覚書で軍人軍属の恩給が停止され、一般の戦災者に対する援護と同様に扱われてきた。「私の夫や子の戦死が無駄死にであったと言われては浮かばれない。私たちはお情けを請うているのではない。負けても国のために捧げたのだという証が欲しいだけだ」というのであった。
4.太陽神戸銀行の誕生
私は、昭和43年〈1968〉12月1日に日本相互銀行から普通銀行に転換した太陽銀行の頭取になっていた。翌44年1月早々、三菱、第一の合併が新聞に出た。この合併は取りやめになったが、金融界に与えた影響は大きかった。しかしその後、46年3月に第一銀行と勧業銀行が合併し、世間をあっと驚かせた。
神戸銀行の石野信一頭取とは、大蔵省の先輩後輩の関係で、いろいろな会合で一緒になる。拙宅での俳句の会にもよく来られ、お互い気心が知れ、何でも気軽に話し合える間柄だった。第一勧銀の合併の話が出て、2,3週間後のこと、石野君からの申し出で、パレスホテルで朝食をともにしながら話した。第一勧銀の合併、今後の金融界の見通し、お互いの合併についての考え方などについてである。
合併は当事者同士が対等でないと、うまくいかないことは常識である。当時、太陽銀行は資金量で都銀14行中13位、神戸銀行は11位だった。資金量は神戸の方がやや多かったが、まずは対等関係といえる。それに太陽は149店舗の大部分が首都圏で、名古屋以西には5店舗しかなかった。逆に神戸は165店舗中、箱根以東に29店舗があったが、東への進出は、関西系銀行としては一番遅れていた。
いろいろ話し合った結果、新銀行の名称は「太陽神戸銀行」とし、本店は神戸にするが、東京、神戸に本部をおくことと、人事は当分の間別々にすることを決め、昭和48年10月1日、新銀行は発足した。