掲載時肩書 | 社会党委員長 |
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掲載期間 | 1961/03/12〜1961/04/06 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1889/01/03 |
掲載回数 | 26 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 立教講師 |
配偶者 | 平岩愃保娘(クリスチャン) |
主な仕事 | 徳富蘆花事件(一高)、関学10年、弁護士、無産党、衆議院議員、社会大衆党、社会党 |
恩師・恩人 | 新渡戸稲造、ベーツ博士(関学) |
人脈 | 森戸辰男・河合栄治郎・賀屋興宣・永野護・田中耕太郎(一高)、前田多門、三村起一、阪本勝、賀川豊彦、江田書記長、三輪寿壮 |
備考 | クリスチャン、型破りの結婚式 |
1889年1月3日 – 1965年12月3日)は東京生まれ。政治家。右派社会党委員長、日本社会党委員長を歴任した。1955年、社会党再統一となると、委員長の座を左派社会党の鈴木茂三郎に譲り、自らは党の顧問となった。その後の河上は平和運動に邁進し、戦時中に商工大臣だった岸信介が首相に就任すると、自らの戦争責任を認めた上で、岸に対しても戦争責任を認めるよう追及するなどしている。息子は衆議院議員・社会党国際局長をつとめた河上民雄。
1.新渡戸稲造校長の演説と学生指導
明治41年(1908)9月、私が一高に入学した翌年3月1日に「校長排斥運動」が起こった。その日は記念祭の前夜祭ということで、全寮コンパが催された。そのとき一部の学生から新渡戸先生の西欧的思想に対する反対を唱えた排斥の声が起こされ、たちまち全学生に波及し、不穏な空気が漂った。演説をする学生はいずれも勇ましい排斥論者ばかりであった。演説は夜半になってもなかなか止まなかった。
午前零時を過ぎたころ、最後に新渡戸先生は演壇に立った。当時一高の先生はガウンを着ていたが、先生は壇上に立つとガウンを脱ぎ捨て、悲壮な決意を示しつつ、静かな口調で演説を始めた。内容は英国のある教育者の著書を引用したもので、学生が卒業後数年経って、学生時代に教わった机に座って当時の先生のことを偲んだという話であった。新渡戸先生はこの話を通じて、教育についての一つの理想を明らかにしたのである。この演説が全学生に非常な感銘を与えた。いままで演壇に立って攻撃していた学生が涙を流して不明を詫び、率先して先生を崇拝するようになった。この事件以後先生の徳というか、理想というものが一高を風靡するようになった。
先生は課外講義をされたが、私の一年の時はゲーテのファースト、二年はカーライルの衣装哲学、三年の時はミルトンの失楽園を教えられたように記憶する。この他、週に1回ずつ1年生には倫理の話をしていた。また今でいう校外指導にも熱心で、毎週一度学校の近くの二階家を借りて学生と直接面会する機会をつくり、学生の悩みを聞いたり、先生の考えを聞かせたりしていた。
2.徳富蘆花事件
一高に入学した当時、弁論部の委員をしていたのは現自民党参議院議員、元運輸、商工相の吉野信次氏と石油資源開発社長の三村起一氏らであった。前田多門氏を始め鶴見祐輔、芦田均氏らの先輩と知り合うようになったのも、弁論部からであった。明治44年(1911)の早春、卒業も間近に迫ったある日、私ども委員が集まって卒業記念の講演会を催す相談し、白羽の矢を立てたのが徳富蘆花先生だった。
そこで私は同僚の鈴木憲三君と一緒に粕谷の先生の家を訪れた。先生はわれわれの話を聞き、しばらく考えた末、「よろしい」と快諾してくれた。そして「一高というところは不平をぶちまけるには非常にいい」と言われた。われわれが「演題は?」と聞くと、「謀反論」という言葉が口をついて出てきた。私は一瞬ドキッとした。そのころ幸徳秋水の大逆事件判決があったばかりなので、これはおそらく秋水に関する演説ではないかと直感した。演題が分かると学校当局に許可されないと思い、会場のハリ紙は「演題未定」としておいた。
そして当日、先生が登壇する直前、学生が講堂にびっしり埋まったころ合いを見て、用意していた「謀反論 徳富蘆花」というハリ紙を出した。一瞬、会場は驚きどよめいたが、先生はそれが静まるのを待って、熱烈な調子で秋水に対する桂内閣の不当な取り扱いをなじった。私の一生でこれほど感銘深く聞いた演説はなかった。
ところが果せるかな演説終了と同時に文部省から強硬な抗議が寄せられた。学校当局も連日この問題で会議がもたれ、新聞も「一高の蘆花事件」としてデカデカと扱い、いろいろな批判をのせる始末であった。私は蘆花先生を引っ張り出す前に新渡戸校長の許可を得ていたので責任を問われることはなかった。結果は新渡戸校長と弁論部の畔柳教授が譴責処分を受けてケリとなったが、一高にとっては歴史的な大事件だった。
3.型破りの結婚式
大正8年(1919)、31歳でメソジスト教会二代目監督の平岩愃保の娘・栄子と結婚した。当時相手は東京にいるし、神戸の関西学院にいる私は見合いなどもする暇はなかった。「見ずして信ずる者は幸いなり」と運命に任せることにしたのだ。月給もほとんど本代にとられ、手元はいつも不如意であった。しかしたとえ金があっても「結納」といって金を包むのは馬鹿らしいと考えた私は、二銭で奉書紙を買い、結婚誓約文なるものをしたため、相手の両親のもとへ送った。相手はさすがに驚いたらしいが、私の気持ちを尊重して同様の誓約文送ってくれた。これで話し合いはでき上ったわけだが、まだ本人同士は顔も知らない。正月休みで帰京した私は初めて、結婚成立後の見合いをした。この見合いは一応成功、もう一度二人きりで会おうということで、翌5日代々木の森を散歩したのだった。
それから話はトントンと運び、式日は同年2月24日、青山学院のハリス館でおこなった。この館は個人住宅の客間に過ぎないので、椅子を並べるととても予定の人数を収容できない。やむを得ず参列者は全員、式が終わるまで立ちっぱなしということになった。
私たちは立錐の余地なく立ち並ぶ参列者の中を、かき分けるようにしてやっと中央に現れるという珍妙な式を挙げたが、あとで友人たちから「総員起立の結婚式とは英国皇室なみだね」と冷やかされた。式後紅茶とビスケットの簡単な披露パーティを催したが、その最中に媒酌人が頼んでいた写真屋がやってきた。もちろん結婚記念の写真を撮ろうというのである。しかし私は「写真はいらない」と断ってしまった。理由は「二人がほんとうに結婚してよかった」と思うようになったときに初めて写したいと思ったのである。それから10年後、代議士として働いていたが、神戸で初めて平服のまま記念撮影したのだった。
河上 丈太郎 かわかみ じょうたろう | |
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『世界と議会』1963年4月号。 | |
生年月日 | 1889年1月3日 |
出生地 | 東京都港区 |
没年月日 | 1965年12月3日(76歳没) |
出身校 | 東京帝国大学(現・東京大学) |
前職 | 関西学院教授 |
所属政党 | (日本労農党→) (日本大衆党→) (全国大衆党→) (全国労農大衆党→) (社会大衆党→) (翼賛政治会→) (日本社会党→) (右派社会党→) 日本社会党 |
第4代 日本社会党中央執行委員長 | |
在任期間 | 1961年3月6日 - 1965年5月6日 |
選挙区 | 兵庫県第1区 |
当選回数 | 6回 |
在任期間 | 1952年10月2日 - 1965年7月3日 |
選挙区 | 兵庫県第1区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1936年2月21日 - 1945年12月18日 |
選挙区 | 兵庫県第1区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1928年2月21日 - 1930年1月21日 |
河上 丈太郎(かわかみ じょうたろう、1889年〈明治22年〉1月3日 - 1965年〈昭和40年〉12月3日)は、日本の政治家。右派社会党委員長、日本社会党委員長を歴任した。息子は衆議院議員・社会党国際局長をつとめた河上民雄。