掲載時肩書 | 考古学・東洋史学者 |
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掲載期間 | 1994/07/01〜1994/07/31 |
出身地 | 山口県 |
生年月日 | 1906/11/06 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 88 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 浦和高 |
入社 | 東方文化院 |
配偶者 | 名前:カズ・のみ |
主な仕事 | 関東大震災(興津洞窟)、北京、内蒙古、民族研究所、北方騎馬民族説、イラン・イラク、華南、タイ、シリア発掘、東洋文化研究所、 |
恩師・恩人 | 原田淑人、池内宏教授 |
人脈 | 吉川幸次郎、水野清一、三笠宮ご夫妻、中根千枝、井上靖、平山郁夫、今里広記、高見順 |
備考 | ジンギス カン陵墓の探求 |
1906年11月6日 – 2002年11月11日)は山口県生まれ。考古学者。東京大学名誉教授。1948年に「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」と題するシンポジウムで騎馬民族征服王朝説などを発表。その要旨は、「日本における統一国家の出現と大和朝廷の創始が、東北アジアの夫余系騎馬民族の辰王朝によって、4世紀末ないし5世紀前半ごろに達成された」と推論している。騎馬民族説は「昭和の伝説」となったが、江上の学者としての真価はむしろ、日本の考古学に海外調査への道を開いたという点にある。
1.日本と中国との民族の違い
昭和5年(1930)留学で初めて行った中国は「新しい国をつくろう」という意気に燃えていた。私は京大の水野清一君らと、天津や山東半島、満州(現中国北部)、遼東半島、内モンゴルなどを旅行した。そこで見聞したことは、書物では到底知り得なかった、中国社会の構造に関わる問題であった。一言に要約すれば、中国と日本はともに農村を基盤とした社会でありながら、両者には画然とした相違の、気づきである。
当時の中国社会は、「大人」と呼ばれる地主・有産階級と「底下人」と呼ばれる無産階級に大きく分かれていた。両者の社会的・文化的交流はほとんどないと言って差し支えなく、士・農・工・商の階層的差別はあっても、それぞれの階層の間で密接な交流関係があった日本とは大きな違いがあるように思えた。
加えて、中国人の国家意識と日本人のそれとも違っていた。中国は歴史上何度も、外国人に支配されてきた。しかし、中国人には国が滅亡するという危機感がなかったのではあるまいか。中国の王朝史「二十四史」も、異民族の王朝をそのまま中国の王朝として記述して何ら異とするところがないように見えた。
2.騎馬民族説の発想原型
零下20度以上にもなる厳冬の内蒙古草原を馬車で旅していると、「近くに村落はないから泊っていけ」と招いてくれた。彼らは本当に親切だった。寒くならないようにと、私たちのテントに娘さんを残してくれ、一晩中火を絶やさないようにしてくれた。私は彼らの歓待に感動しながら、中国・華北の農民たちとの違いを考えた。中国の大人階級の家では、夫人が客の前に顔を出すことはなかった。たまに主人に用事があって出てくることはあっても、客に挨拶などしない。これに対して、蒙古では、主人がいないときでも女性や子供だけで迎え入れてくれる。王妃のような身分の高い人でも自ら手料理を作り、もてなす。万里の長城が象徴するように、他人を入れない世界をつくった中国人との違いというものを、この時ほど感じたことはなかった。遊牧民族と農耕民族との違いはあるが、どこか日本に通じるものがありはしないか。騎馬民族説の原型のようなものが、漠然とではあるが、その時、私の脳裏に形成された。
3.イラン北方の騎馬民族古墳・発掘
昭和34年(1959)にイラン遺跡調査のため訪れた。デーラマンの調査では、まず最初に騎馬民族の遺跡を発掘した。王墓のようなある土拡墓では、壁の三方を青銅の剣でびっしり埋めてあった。残る一方には殉死した部下たちの遺体を埋めた石槨墓が並んでいて、王を守っていた。殉死者の墓の中には、武器の他に壺のような土器がいっぱい詰まっていて、足の踏み場もないほどだった。墳墓が三段になっていて、上段には武人が3人で墓を守り、中段には多数の女性殉死者の遺骨が散乱、最下層に王様が威張った格好で埋葬されているような墓も発掘した。
私のイラン、イラク調査の最大目的は農耕起源を探ることにあった。これらの調査結果で分かったことは、紀元前(4500年~3500年)以前の農耕は、灌漑をせず、天水、つまり雨水を利用していたということだった。しかも、農耕と遊牧が一緒に行われていたのである。それが、人口が次第に増えてくると水が必要になる。天水を当てにせずに農耕ができる場所を求めて、川や泉のそばで農耕が始まる。そして、牧畜をする人たちは牧草の豊かな草原に分かれていった。こうして私の研究対象であった遊牧民族は紀元前3000年ごろ、家畜を連れて草原を移り住む放浪生活を始めるようになったのである。
人物情報 | |
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生誕 | 1906年11月6日 日本山口県下関市 |
死没 | 2002年11月11日 (96歳没) |
出身校 | 東京帝国大学文学部 |
学問 | |
研究分野 | 考古学 |
研究機関 | 東京大学東洋文化研究所 |
江上 波夫(えがみ なみお、1906年11月6日 - 2002年11月11日)は、日本の考古学者。東京大学名誉教授。文化功労者・文化勲章受章者。
山口県下関市生まれ。1948年に「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」と題するシンポジウムで騎馬民族征服王朝説などを発表。その要旨は、「日本における統一国家の出現と大和朝廷の創始が、東北アジアの夫余系騎馬民族の辰王朝によって、4世紀末ないし5世紀前半ごろに達成された」と推論している(著書『騎馬民族国家』より)。