掲載時肩書 | 衆議院議員 |
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掲載期間 | 1969/11/04〜1969/12/03 |
出身地 | 千葉県 |
生年月日 | 1905/04/13 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 64 歳 |
最終学歴 | 京都大学 |
学歴その他 | 水戸高 |
入社 | 東京市交通局 |
配偶者 | 逓信省幹部娘 |
主な仕事 | 日本鋼板、衆議員、政調会、統制撤廃、欧州視察、所得倍増計画蔵相、国際通貨、城西大学創設 |
恩師・恩人 | 眉間のコブ |
人脈 | 宇都宮徳馬・舟橋聖一・丹羽喬四郎(水戸)、森暁、山村新次郎、林譲治、青木一男、柏木雄介、水原秋櫻子 |
備考 | タバコ1日:120本、父・村長 |
1905年4月13日 – 1976年12月22日)は千葉県生まれ。政治家。福田赳夫と並んで日本の高度経済成長期を象徴する財政家の一人であった。殊に佐藤栄作政権末期に起こった、いわゆるニクソン・ショックでは為替相場安定に腐心し、変動相場制へと動く過渡期の国際金融情勢下で日本の財政を舵取りした人物として知られる。城西大学創立者。自由民主党政務調査会長(初代)。大蔵大臣を数度に亘り務めたほか、経済審議庁長官や通商産業大臣など経済閣僚を歴任した。
1.戦後の統制撤廃に取り組みインフレ抑制
昭和24年(1949)1月、戦後初めて長期安定政権が生まれ、第3次吉田茂内閣になり、私は引き続き政調副会長を務めた。政調会にあって、私が真剣に取り組んだ仕事は、経済統制の撤廃だった。今でこそ当たり前のことのように見えても、当時としては命がけの仕事であった。何万種類の公定価格があり、物資は配給票と流通路を統制されており、違反すれば経済事犯となった。ヤミが横行し、法律は実際に死んでいても、それを改めることには反対が強かった。各省の役人は統制の権限に固執するし、統制によって生活の根拠を得ている民間団体や企業者が余りにも多くて統制存続への運動は強かった。
GHQ総司令部それ自身も、いつの間にか占領行政の官僚機構化して、統制の順守を指令することが多く、民間出身の自由主義経済論者は、腹背に敵を受けて孤軍奮闘したものであった。私どもの真剣な努力は次第に功を奏し、最後にはドッジ公使の来訪となって、1ドル=360円という単一な為替レートが作られたために、竹馬経済と言われた価格差補給金制度と、複数の為替レートによる価格統制から解放されることになった。これにより敗戦後のインフレを抑制するのに成功したのであった。
2.シャウプ税制で残念に思うこと
昭和24年(1949)6月、私は大蔵政務次官に任命されて、今度は来日中のシャウプ博士の指導によって、国税、地方税の根本的な改革に取り組むことになった。その結果、現行のいわゆるシャウプ税制ができあがったのであるが、今考えて残念なことをしたと思うことは、シャウプ提案の付加価値税を見送ったことである。たとえ未熟なままであっても、あの時、売上税とか付加価値税的なものを、今の税体系の中に入れておきさえすればよかったのである。
そうすれば今問題となっている直接税の減税について、法人税やサラリーマンの減税についても、打開の道が開かれていたはずと思う。残念でならない。折角の機会を逃したことは何としても悔やまれる。
3.眉間のコブ(宝)
昭和30年(1955)東南アジアを歴訪し、ビルマやセイロンで連日パゴダやお寺参りしたためか、帰国してから額の真ん中にグリグリしたものが手に触れるようになった。皮膚の下に脂肪の小さい塊ができたのである。仏教国からもらってきたお土産のような感じがして大切にしていたところ、3年目ぐらいから少しずつ目立つようになり、10年にして今の大きさとなった。目障りなので取ったらどうかという人も多くなったが、ある日、東洋大学学長であった小林啓善氏から手紙が来た。
お釈迦様の眉間に白い毛が1本生えたのを、右回りに捻りながら全長1丈5尺(約4.5m)を丸く収めたのが白毫(びゃくごう)の相であって、仏相32相のうちでもっとも高貴な相と言われている。私の眉間のものはまさにお釈迦様と同じものであるゆえ、絶対に除去してはならぬというものであった。
その後来日するビルマの高官を羽田に出迎えた時である。順々に握手を交わして私の前に来たとき、急に立ち止まって合掌されたので、白毫の相もこれで証明されたような気がして、私は自信を深めるようになった。各町村の支持者に対するアンケートでは、温存することに賛成な者が圧倒的多数なので、今では有権者に無断で取るわけにはゆかなくなっている。
水田 三喜男 みずた みきお | |
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1962年頃に撮影 | |
生年月日 | 1905年4月13日 |
出生地 | 日本 千葉県安房郡曽呂村 (現・鴨川市) |
没年月日 | 1976年12月22日(71歳没) |
死没地 | 日本 東京都文京区 |
出身校 | 京都帝国大学法学部 (現・京都大学法学部) |
前職 | 大同石油取締役 |
所属政党 | (日本自由党→) (民主自由党→) (自由党→) 自由民主党 |
称号 | 勲一等旭日大綬章 |
子女 | 次女・水田宗子 |
親族 | 父・水田信太郎(曽呂村長) |
第65-66・71-72・75代 大蔵大臣 | |
内閣 | 第1次池田内閣 第2次池田内閣 第2次池田第1次改造内閣 第1次佐藤第3次改造内閣 第2次佐藤内閣 第2次佐藤第1次改造内閣 第3次佐藤改造内閣 |
在任期間 | 1960年7月19日 - 1962年7月18日 1966年12月3日 - 1968年11月30日 1971年7月5日 - 1972年7月7日 |
第13-14代 通商産業大臣 | |
内閣 | 石橋内閣 第1次岸内閣 |
在任期間 | 1956年12月23日 - 1957年7月10日 |
第5代 経済審議庁長官 | |
内閣 | 第4次吉田内閣 |
在任期間 | 1953年3月3日 - 1953年5月21日 |
選挙区 | (千葉県全県区→) 旧千葉3区 |
当選回数 | 13回 |
在任期間 | 1946年4月11日 - 1976年12月22日 |
その他の職歴 | |
初・第14・18・22代 自由民主党政務調査会長 総裁:鳩山一郎 (1955年 - 1956年) 総裁:佐藤栄作 (1966年、1970年 - 1971年) 総裁:田中角栄 (1973年 - 1974年) |
水田 三喜男(みずた みきお、1905年4月13日 - 1976年12月22日)は、日本の政治家。城西大学創立者。自由民主党政務調査会長(初代)。大蔵大臣を数度にわたり務めたほか、経済審議庁長官や通商産業大臣など経済閣僚を歴任した。戦後日本の代表的な財政家でもある。