正宗白鳥 まさむね はくちょう

文芸

掲載時肩書作家
掲載期間1956/05/21〜1956/05/29
出身地岡山県
生年月日1879/03/03
掲載回数9 回
執筆時年齢77 歳
最終学歴
早稲田大学
学歴その他早稲田專
入社早稲田出版
配偶者女性観
主な仕事里見八犬伝(10歳)、キリスト教求道、読売新聞、美術・演劇評論、長短600小説
恩師・恩人
人脈坪内逍遥、伊原青々園、後藤宙外、岡鬼太郎、松居松葉、小山内薫
備考キリスト教求道
論評

1879年(明治12年)3月3日 – 1962年(昭和37年)10月28日)は岡山県生まれ。明治 から昭和にかけて活躍した小説家、劇作家、文学評論家。虚無的人生観を客観的に描く自然主義の代表作家として出発。批評精神に満ちた冷徹な境地を拓いた。評論にも優れて、戯曲も知られている。1936年(昭和11年)1月24日-25日の読売新聞に小林秀雄が「作家の顔」という小論文を掲載した。その中に、『読売新聞』同年1月11日-12日に正宗がトルストイについて書いた評論「トルストイについて」に対する非難が掲載されており、『中央公論』などを舞台に小林と正宗との間に「思想と実生活論争」が起こった。白鳥は6男3女の長男で、弟に画家の正宗得三郎、国文学者の正宗敦夫、植物学者の正宗厳敬が、甥に日本興業銀行第3代頭取となった正宗猪早夫がいる。

1.時代の背景(ものの見方)
忠臣蔵には、いろいろな劇的要素が含まれている。周囲の人々は、由良之助をはじめ、6段目の義士代表者として出現する千崎弥五郎、原郷右衛門にしても、勘平にしても、あるいはお軽にしても、主君の仇討ちを人生最高の理想としている。身を売って遊女となったり、腹を切ったり、盗賊に殺されたりするのも仇討ちの準備行為のために起こったのだ。みんなが軍国主義の信者なので、人がその犠牲になっても、それを人生の理想実現の行程に起こることとして甘受している有様である。これら仇討主義者、軍国主義者の中に取り囲まれながら、老婆のおかや一人は、わけもわからずに、夫の非業の最期を見せつけられたり、娘の婿に腹をきられたりして、独りぼっちでウロウロしているのである。軍国主義者たちのために迷惑を強いられる庶民の一人の姿を、このおかやにおいて見ることができるのである。人生では重きを置かれない人間において、かえって真の人生がうかがわれるのである。

2.女性観
私は、若くして結婚して、幾人もの子供を産んで、日々の暮らしにあくせくしている知人の生活を見ると、憐れなように思われていたのだが、しかし、芸術家のうちでも、小説家は、ことに自然主義ふうの小説家は、妻子のために苦労するところに、人生の真味が味わわれて、その作品の価値も増すことになるのだともいえよう。芸者遊びや遊郭通いにふけっている男子は、女をよく知っていると言われ、ご当人もそれを鼻にかけたりするものだが、それよりも女性の真相は、子供を背負って貧乏暮らしに悩んでいる婦人に一層よく現れているのではあるまいか。
 近来、悪妻恐妻が文壇にも出現して、鴎外、漱石、あるいは露伴などの夫人は悪妻であったように噂され、悪妻を持っていたため面白い小説が書けたのだとも言われているが、果たしてそうであったか。夫人の方から言わせたら、これらの文豪は悪夫であったかもしれない。私は現実の女性よりも空想の女性に心惹かれる思いをしている。いわゆる永遠の女性なんてことを考えて、そんなものを書いてみたいとおもうこともあるが、これはひっきょう愚かなる妄想であり、現実に裏付けられない空想に何の力があるものか。

3.私の人生観
私は平穏無事に過ごしたが、日本国の社会情勢は変化を極めていたといっていい。私の一生の間は、日清戦争あり、日露戦争あり、第一次世界大戦あり、そして最後に太平洋戦争あり、関東大震災もあった。よくもこの間を生き続けて来られたものだといっていい。この社会情勢変化の経路については、さまざまな批判が下されているが、どういう説が正しいのやら、私にはよく分からない。分からないながらも、今日までほそぼそと順調に生きて来られたのは、私の処世態度がおのずから当を得ていたのであろう。どうだろう。

正宗 白鳥
(まさむね はくちょう)
誕生 正宗 忠夫
1879年3月3日
日本の旗 日本岡山県和気郡穂浪村
(現・備前市穂浪)
死没 (1962-10-28) 1962年10月28日(83歳没)
日本の旗 日本東京都千代田区飯田橋
墓地 日本の旗 日本多磨霊園
職業 小説家劇作家文芸評論家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 東京専門学校文学科
(現・早稲田大学
活動期間 1904年 - 1962年
ジャンル 小説戯曲文芸評論
文学活動 自然主義文学
代表作 『寂寞』(1904年)
『何処へ』(1908年)
『入江のほとり』(1915年)
『牛部屋の臭ひ』(1916年)
『最後の女』(1924年、戯曲)
『自然主義盛衰史』(1948年、評論)
『今年の秋』(1959年)
主な受賞歴 文化勲章(1950年)
菊池寛賞(1957年)
読売文学賞(1960年)
デビュー作 『寂寞』(1904年)
親族 兄弟:正宗敦夫(国文学者)、正宗厳敬(植物学者)、正宗得三郎(画家)
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正宗白鳥
生家跡

正宗 白鳥(まさむね はくちょう、1879年明治12年)3月3日[1] - 1962年昭和37年)10月28日[1])は、明治から昭和にかけて活躍した日本小説家劇作家文学評論家。本名は正宗 忠夫(まさむね ただお)。別号は剣菱、影法師[1]岡山県生まれ[1]東京専門学校文学科卒。虚無的人生観を客観的に描く自然主義の代表作家として出発。批評精神に満ちた冷徹な境地を拓いた。評論にも優れている。戯曲も知られる。日本芸術院会員、文化功労者文化勲章受章者。

旧家の長男として生まれる。虚弱で、幼時からの生への不安が、後のニヒリズムの気質を育てたという。読売新聞社で文芸時評を書いたのち、『塵埃』(1907年)で自然主義文学の代表的作家に。『何処へ』(1908年)、『泥人形』(1911年)など否定的人生観を反映した作品が多い。

鋭い批評を行い、晩年は文壇の御意見番的存在であった。評論に『作家論』(1941年)、戯曲に『安土の春』(1925年)などがある。

  1. ^ a b c d 正宗白鳥|近代日本人の肖像”. 近代日本人の肖像. 国立国会図書館. 2022年8月1日閲覧。
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