掲載時肩書 | 囲碁9段・王座 |
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掲載期間 | 1957/05/13〜1957/05/23 |
出身地 | 大阪府 |
生年月日 | 1907/02/27 |
掲載回数 | 11 回 |
執筆時年齢 | 50 歳 |
最終学歴 | 小学校 |
学歴その他 | |
入社 | |
配偶者 | 碁好き娘 |
主な仕事 | 本因坊、S20広島戦原爆日対局、関西棋院発足、日本棋院と対立、関西棋院分裂、 |
恩師・恩人 | 瀬越憲作 青木重臣 |
人脈 | 久保松勝喜代、緒方正清(義太夫・囲碁本60冊)、雁金準一、望月圭介、木谷実、呉清源、木村秀吉、津島寿一(対立) |
備考 |
1.修行のつらさ
かわいがってくれた医者の緒方正清先生は義太夫に夢中だったが、遺族の方にはすまないが、あまりお上手ではなかった。そこで聞き手がないので、よく私が相手をさせられた。長いことではなく、ほんのひとクダリだったのだが、聞く身はラクでなかった。しかしその代わり、聞き賃の意味だろうが、当初は数少ない囲碁の本を帰りに必ず一冊ずつ下さった。その本が楽しみで、私は義太夫の早く済むのをひそかに念じながら、よく通ったものである。いつか調べてみると60冊あったから、その数だけ義太夫を聞いたわけだ。
2.負けると東京に帰ってくるな
衆議院議長の奥繁三郎さんのところに同郷の先輩で人情大臣といわれた望月圭介さんから紹介を受けた。行くとすぐに「一番打とう」といわれた。その日は師匠の瀬越先生の家で朝食を食べただけで夕方箱根に着いたのだった。私は「負けたら東京に帰れない。関西に帰れ!」といわれているので、一番も負けられない。奥さんの碁は強くないけれど、なかなかの自信家で、置いて打とうとはしなかった。私はそのとき初段くらいの力があったから、碁にならない。7,8番やったがやめてくれない。そのうちカンカンになられて、一番でも勝とうと、終わればまたすぐパッと石を置かれる。勝ってから晩御飯をたべるつもりらしいが、こっちはお腹がぐうぐうなるし、そのうち痛くなりだした。それでも望月さんの「負けると東京に帰ってくるな」を思うと負けられないので、まことにつらかった。
奥さんはその間人払いをしていたから、お茶も飲めない。先方はウイスキーの角瓶をぐいぐいやりながら打っている。打ちながら飲んでいるのか、飲みながら打っているのか、ずらり並んだ空瓶は壮観だった。やっと真夜中の二時ごろに、「音がパチパチして眠れやせんじゃないか」と柳原代議士が来て代わってくれた。そのあと、飯を食ったかどうか忘れてしまった。それも修業のうちに入れば、つらい修業をしたことになる。
3.原爆投下時の対局
戦時下の8月、広島で岩本当時7段と本因坊戦をやることになった。対局の3日間は空襲のもっともひどいときだったが、私たちはひっきりなしの機銃掃射でカワラのビンビン砕ける屋根の下に頑張りとおし、とうとうただの一度も防空壕に入らずに羽織はかまで打ち続けた。今にして思うとまったく命がけの対局であった。私はこの空襲下の第一局を失った。広島は危険として第二局は、少し離れた五日市に対局場を移した。第二局3日目の8月6日、その朝空襲警報の解除を待って、さぁ始めようと盤をかこんだ。そして何気なしに窓外をみると、米軍機が一機とんでいる。あれは偵察機らしいから安心だと言い合ったが、そのうち落下傘がだいぶ高いところからひらひらと落ちてくる。
飛行機が見えなくなったと思ったとき、突然ピカッときて、ちょうどマグネシュウムたいたように対局室は白煙でいっぱいになった。何だろうと立って見に行く人もいた。そのうち異様な音がごうごうと迫ってくる。爆風の行進だった。それがバーンと私たちの対局室にぶつかると、その辺にあるものがみんな吹っ飛んで、カモイまでくずれ落ちてしまった。が、その瞬間というか、はっと気が付いたときは全員庭の芝生の上に立っていたから、私たちの逃げ足はよっぽど早かったらしい。
橋本宇太郎 九段 | |
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1959年1月9日 | |
名前 | 橋本宇太郎 |
生年月日 | 1907年2月27日 |
没年月日 | 1994年7月24日(87歳没) |
プロ入り年 | 1922年 |
出身地 | 大阪府 |
所属 | 関西棋院 |
師匠 | 瀬越憲作 |
段位 | 九段 |
概要 | |
タイトル獲得合計 | 16 |
七大タイトル | |
棋聖 | 挑戦者 (1977) |
本因坊 | 3期 (1943・50-51) |
王座 | 3期 (1953・55-56) |
十段 | 2期 (1962・71) |
橋本 宇太郎(はしもと うたろう、1907年〔明治40年〕2月27日 - 1994年〔平成6年〕7月24日)は、昭和の囲碁棋士。第2、5、6期本因坊で本因坊昭宇と号する。大阪府出身、瀬越憲作名誉九段門下。1950年に関西棋院を率いて日本棋院から独立した。才気と闘志溢れる碁風で「天才宇太郎」「火の玉宇太郎」のニックネームを持つ。
1950年7月から1994年7月まで関西棋院総帥、1986年5月から1994年4月まで同棋院理事長。
1945年の第3期本因坊戦での岩本薫七段との挑戦手合において、広島市郊外の佐伯郡五日市町(現:広島市佐伯区)で行われた第2局は原爆下の対局として有名。
2014年7月18日、囲碁殿堂入り(第11回囲碁殿堂表彰)。[1]