橋本凝胤 はしもと ぎょういん

宗教

掲載時肩書法相宗管長・薬師寺管主
掲載期間1965/02/02〜1965/02/25
出身地奈良県
生年月日1897/04/28
掲載回数24 回
執筆時年齢68 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他三高
入社8歳法隆寺
配偶者記載なし
主な仕事薬師寺、興福寺、仏教美術雑誌・美術展、チベット語、原経典発見、飛鳥・平城保存、渡米、月光菩薩修理
恩師・恩人佐伯定胤師
人脈望月信亨師、河口慧海、筒井英俊師、正力松太郎、和辻哲郎、小林一三、松永安左エ門、大野伴睦、鈴木大拙、松下正寿
備考先祖から法隆寺守り
論評

1897年4月28日 – 1978年3月25日)は奈良県生まれ。法相宗の僧侶で仏教学者。仏教学者としては、「大正新脩大蔵経」編纂に参画した。中国を遍歴、チベット仏典を収集、請来する。奈良県文化財保護や、インドに日本寺建立のため尽力した。インドのブッダガヤに仏塔を建立。経済界や政界とは交流が深く、政治家では大野伴睦と親交があったほか、佐藤栄作とも交流があった。財界では「電力の鬼」といわれた松永安左エ門、阪急社長の小林一三と交流があった。こうした政財界との交流の結果、遅遅として進まなかった平城宮跡の国有化を実現に導いた。奈良・薬師寺元管主、法相宗管長。「20世紀最後の怪僧」「昭和の怪僧」の異名を持つ。

1.出家と母
いよいよ8歳(明治37年「1904」)3月21日に法隆寺に出家することになった。母は前から準備を急いでいた鋏箱に着物だの本だのを詰め、上から定紋入りの油単をかけて出入りの者に一荷を担わせ、明けやらぬ朝まだき村のはずれで親類の人々に別れを告げた。2里(8km)の道を母に見守られつつ寺に向かったのだが、その途中母は寺へ行けばこのようにせねばならん、とこまごまと教えてくれた。
 いまでも覚えていることは、人間は何事でも3年経つと目鼻がつく、10年やればまず一人前になるものだ。だから何事も辛抱が大事だと教えてくれたことである。
 しかし法隆寺に入門すると、日がたつにつれて、さびしさ、わびしさが増した。法隆寺は今と違って非常に貧しかったため、夜具でも敷き布団はなく、上布団のみであったし、枕は一本の柱木で、それに皆が目刺しのように頭を並べて寝るのだった。朝4時になると師匠が枕になっている柱の端をげんのうで叩く。皆がその振動で飛び起きるという厳しい生活だった。
 後になって聞いたのだが、母は毎日8kmの道を弟を背負い、法隆寺に通い門前を行きつ戻りつしながら、遠くから私の元気な姿を見て黙って帰るということを1か月も続けてくれたという話を聞かされ、私は泣いた。

2.仏教美術の宣揚が必要
仏教を広くひろめるには美術雑誌を出版しようとの話が持ち上がった。大正10年(1921)ごろ、法隆寺の佐伯定胤師が上京されたとき、東大寺の筒井英俊師を紹介されて具体化した。美術雑誌の名は「寧楽」と命名し、寧楽仏教研究会を母体とした。原稿を集めるのも苦労したが、数年は続け、20数巻まで出版した。
 さらに仏教を宣揚する方便として、大衆には仏教美術から入門させることが最も容易であると思い、昭和13年(1938)頃としては、他に例の見ない出開帳を大阪の高島屋でやってのけた。当時としては、仏像などを百貨店に並べることは許されなかったのだが、飯田社長や重役と話しあった結果、寧楽美術展を計画し、数百点におよぶ仏像、仏具、経綸を拝観させてもらった。

3.平城京跡の保存
明治38年に法隆寺に入寺して以来、よく世話になった人に寺の信徒総代であった大地主の戸尾善右衛門氏がいる。氏は当時まだ平城宮跡だと言い伝えられていたに過ぎなかった田を史跡指定にしようと努力された先駆者のひとりである。
昭和15年(1940)に平城京跡の仕事ができないままに、戸尾氏は逝去されたが、氏の遺言には平城京の保存にふれた一項目があった。私は奈良では、飛鳥・平城保存協会をつくり理事長になった。この土地をビジネス活用したい近鉄佐伯社長や、政界の大野伴睦氏らとお会いし、保存の必要性や重要性を説き、ご協力をいただいた。大野氏は時の池田総理にも内諾を取り付けてくださり、昭和37年(1962)12月28日、やっと初年度4億数千万円という高額の史跡保存予算が決定された。この保存実現に、地下に眠っている戸尾善右衛門氏もさぞ喜んでくれていると思う。

橋本 凝胤(はしもと ぎょういん、1897年4月28日 - 1978年3月25日)は、法相宗僧侶仏教学者奈良薬師寺元管主、法相宗管長。「20世紀最後の怪僧」「昭和の怪僧」の異名を持つ。

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