掲載時肩書 | 横河電機名誉会長 |
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掲載期間 | 1996/09/01〜1996/09/30 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1914/08/31 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 82 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | 慶応予 |
入社 | 横河東亜 |
配偶者 | 朝日主筆娘(神戸女学院) |
主な仕事 | 横河橋梁、電機、職能給制度(年齢65:職能35)、HPとGEとの合弁、北辰電気合併、世界生産 |
恩師・恩人 | 松井憲紀 |
人脈 | 岡本太郎(慶応)、井深大、ジョン・ヤング(HP)J・ウエルチ(GE)、厳志良、リー・クワンユー、松沢卓二、蘇天 |
備考 | 父:建築家、横河コレクション国立博物館に寄付 |
1914年8月31日 – 2005年12月26日)は東京生まれ。実業家。元横河電機社長。横河ヒューレット・パッカード株式会社(現・日本ヒューレット・パッカード株式会社)初代社長。横河電機の中興の祖と称される。社長時代、横河・北辰の合併により、余剰となった人材をリストラせずに、活用する方法にこだわり、多数のグループ会社を設立。計測・制御機器事業を中心に、事業を多角化。現在の横河電機グループの発展を実現させた。また、社内のスポーツ振興に力を注ぎ、横河電機サッカー部(現・東京武蔵野シティFC)やラグビー部(現・横河武蔵野アトラスターズ)などを育成した。その他、慶應義塾評議員などの公職も兼任。
1.父・民輔の業績
父の民輔は横河電機、横河橋梁(現横河ブリッジ)など横河グループの創業者。事業家という以上に日本の西洋建築の草分けとして知られる建築家だった。父の設計による洋館で現在残っているのは丸の内の日本工業倶楽部、銀行倶楽部、日本橋の三越本店などだ。姿を消したが旧帝劇、三井本店、明治座の前身の久松座、日本で最初の椅子席劇場の有楽座なども有名だ。
父のことで東京国立博物館に寄贈した横河コレクションの話は欠かせない。寄贈した中国などの古陶磁器は1200点。時代別、窯別に収集された学術的にも貴重なものだった。昭和7年(1932)から数回に亘り寄贈し、金額は当時の金で数千万円、1ドルが2円の時代だから、新聞には歴史的快挙と報じられた。
2.米国フォックスロボ社との技術提携成果
昭和30年〈1955〉6月にこの会社と技術導入契約締結を機に、会社は急成長し業界トップの地位を確実なものにした。フォックスロボは当時世界の四大工業計器メーカーの一つで、この提携によって横河は計測器専業からいち早く工業計器分野に進出することができた。
技術提携してすぐ気づいたのは8%のロイヤリティを払っても当然だということ。私らはハード技術ばかりに目がいっていたが、アプリケーション(応用)ノウハウが何たるか知らなかった。それが素晴らしかった。石油化学の制御ならこう、石油精製、製紙、製鉄プラントならこうと業種ごとに全部ある。こんなノウハウ開発は、日本でやれと言われてもその当時は絶対に無理だった。
従来は人間がメーターの指示盤を見ながら温度や圧力を調節していたが、機械で測定、かつ自動調節できるようになったのだ。しかも作業工程(プロセス)の最初から最後まで全工程を自動制御(コントロール)する。いわゆるPA(プロセス・オートメーション)だ。だからこの年は日本のPA元年となった。
3.ヒューレットパッカード(HP)との合弁成果
昭和38年(1963)、横河は米国のHPとの合弁会社、横河ヒューレット・パッカード(YHP)を設立した。フォックスロボとの提携が100%技術援助提携で、事実、横河は100%以上、技術を吸収した。次のHPとの合弁は、技術以上に経営管理術、つまり会社の近代化で功績があった。同時に私自身が社長となり、経営者として11年間の修羅場を経験する一大転機となった。
賃金制度や労務、人事評価などは日本流の私の意見が通ったが、生産や開発はHPのやり方に学んだ。カルチャーでの対立はあったがHPから随分学んだ。最大のものは私が「%(パーセンテージ)経営」と呼ぶ計数管理に基づく経営手法だった。原価が何%、販売管理費が何%、その中のセールス費用が何%と自分の会社の標準をきっちり幹部が頭に入れる。そして異常値の部分を改める。設備投資も独自の方程式に当てはめて決める。
日本はといえば、総経費が売り上げの2割を超えてはいけないという、多分にどんぶり勘定的で、金額にこだわる「実数経営」だった。
4.ジェネラル・エレクトリック(GE)とジャック・ウエルチ氏
昭和57年(1982)4月にGEと横河の50%ずつ出資の横河メディカルシステム(YMS)が設立された。初めはGEの新型CT(断層撮影)の販売代理店契約だった。ところが販売を開始した当初からどんどん売れる。ドル減らしで政府が積極的に買い上げたからだ。年商が100億円を超えたあたりから私たちは国産化の希望を出し、認められた。技術導入からライセンス生産、次は国産化という日本のお家芸で、私はこの分野に開発エンジニアを大量に投入した。「GE製はキャデラックだけれど、こっちはトヨタ型を作る」と軽量小型のCTを開発し売り出したのが、大成功する。
GEのジャック・ウエルチ会長は現在、世界でも1,2位を争う名経営者だ。こんなことがあった。私が大手化学会社傘下の工業計器会社の買収交渉のために渡米した時だ。ウエルチ会長から会いたいと連絡があった。中西部のセントルイスが交渉の場所。今回は無理だと断ったら、ニューヨークから自分が行くという。私が交渉を終えて、ホテルで待っていると、夜8時ごろ、自家用飛行機で飛んできた。
大きな懸案事項はなかったが、質問攻めをして「わかった。じゃ、帰る」で終わり。会長がニューヨークに帰ったのは真夜中だった。帰りに西海岸のGE事業部に寄ると「ウエルチ会長からあなたに聞けと言われた事柄がある」と関係者が待っていた。セントルイスで理解できなかったことを再度、部下に質問させ確認させる。仕事に関しては妥協がなく徹底していた。