掲載時肩書 | マンガ家 |
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掲載期間 | 1971/12/04〜1971/12/31 |
出身地 | 高知県 |
生年月日 | 1909/05/17 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 62 歳 |
最終学歴 | 中学校 |
学歴その他 | |
入社 | 職業補導所 |
配偶者 | 友人の妹、姪と再婚 |
主な仕事 | 本山白雲(彫刻家:弟子)、新漫画派集団、「フクちゃん」、毎日新聞連載、漫画映画 |
恩師・恩人 | 横溝正史、岡本一平 |
人脈 | 近藤日出造(妹婿)、杉浦幸雄、清水崑、武田麟太郎、玉川一郎、小林秀雄、永井龍男、鎌倉作家 |
備考 | 弟・泰三(プーサン) |
1909年5月17日- 2001年11月8日)は高知県出身の漫画家、アニメーション作家。政治風刺漫画が主流だった1930年代日本の漫画界において、簡略な絵柄と明快なギャグによる欧米流の「ナンセンス漫画」を志向した若手グループ「新漫画派集団」を結成し、やがて戦中・戦後初期の漫画界をリードした。戦後にはアニメーション制作会社「おとぎプロダクション」を設立したほか、広告や絵本のイラストレーションや、油彩画を描いた。
1.挿絵の仕事
昭和7年(1932)ごろ、「新青年」の編集長は横溝正史さんで、横溝さんが編集長を去って作家になると、今度は横溝さんの挿絵注文をたくさんもらいました。私を世に出してくれたのは新青年歴代の編集長ですが、横溝さんは自分の作に特に私を起用してくれたのです。
しかし、小説の挿絵は、モノを知らないとなかなか描けるものではありません。ことに私はいなか出で外国作家の小説挿絵には外国映画の風俗習慣を見るのが一番いいと思ったし、もともと映画が好きでしたので毎日のように映画館のはしごをしました。ルパンものを新青年で紹介するときは私なりにルパンになりました。
挿絵を描くために時々スケッチに出かけたのもその頃が多かったようです。スケッチしているのを人に見られるのが恥ずかしかったので、マントを頭からかぶり、手頃の工場を見つけて塀の間から覗きながらスケッチしていたら、不審者として警察に連れていかれて、とっちめられました。
2.一言助言が一生の指針に(連載フクちゃんの批判から)
昭和11年(1936)1月25日から「江戸っ子健ちゃん」という連載を始めましたが、最初1か月の約束でしたが、評判が良く新聞は私に連載を続けるよう命じました。すると批判の投書も盛んに来るようになりました。
読んでみると、この作者は子供の漫画を描いているが、子供の心理を掴んでいないし長編漫画の作家ではない。始めたばかりでいきぎれがしているなど、私をこっぴどくやっつけている内容でした。
その時、岡本一平先生が私に言いました。「投書がたくさん来たり、拍手の起こるうちは本当の人気ではない。いったい人はおれの漫画を見ているのだろうか、本人にもわからないように落ち着いてしまったら人気の永続性がある」と。そして「いま凄い人気だね。だが気を付けるんだよ、声のある間はダメだってこと」も。
私はこの言葉によって、声に一喜一憂はしなくなりました。何事によらず師というものはいいものです。たった一言で一生を指導してくれる場合もあります。
3.フクちゃんが映画に
昭和11年(1936)の末に東宝で、私の「江戸っ子健ちゃん」が映画になりました。配役では、健ちゃんがエノケンの子息の暎一君で、フクちゃんは中村メイコちゃん、近所の碁会所の娘が高峰デコちゃんといった配役で、エノケンもセトモノ屋のおやじで特別出演してくれました。
4.デンスケが映画に
昭和30年(1955)に日劇でデンスケ二千回記念バラエティがあって、笠置シズ子さんがぺコ主人公です。これはその後、松竹で映画になりました。
デンスケはそのほか日活でデンスケの宣伝狂というのをフランキー堺の主役で撮りました。浅草の大宮デンスケさんのデンスケは私より古いそうですから、あるいは多少迷惑をかけたかもしれないし、別の意味で宣伝を助けたかもわかりません。
横山 隆一 | |
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『サンケイグラフ』1955年1月23日号 | |
本名 | 同じ |
生誕 | 1909年5月17日[1][2] 日本 高知県高知市[1][2] |
死没 | 2001年11月8日(92歳没)[1] 日本 神奈川県鎌倉市[3] |
国籍 | 日本 |
職業 | 漫画家 |
活動期間 | 1931年 - 2001年 |
ジャンル | 4コマ漫画、幼年漫画、 ナンセンス漫画 |
代表作 | 漫画 『フクちゃん』 『デンスケ』 他 アニメーション 『おんぶおばけ』 他 |
受賞 | 第8回日本漫画家協会賞 大賞(1979年)[4] 文化功労者(1994年)[4] |
横山 隆一(よこやま りゅういち、1909年5月17日[1][2] - 2001年11月8日[1][4][5])は、日本の漫画家・アニメーション作家。高知県高知市[1]出身。
政治風刺漫画が主流だった1930年代日本の漫画界において、簡略な絵柄と明快なギャグによる欧米流の「ナンセンス漫画」を志向した若手グループ「新漫画派集団」を結成し[6]、やがて戦中・戦後初期の漫画界をリードした。戦後にはアニメーション制作会社「おとぎプロダクション」[3]を設立したほか、広告・絵本のイラストレーションや、油彩画を描いた[1]。