掲載時肩書 | アサヒビール名誉会長 |
---|---|
掲載期間 | 2001/01/01〜2001/01/31 |
出身地 | 京都府 |
生年月日 | 1926/01/25 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 75 歳 |
最終学歴 | 京都大学 |
学歴その他 | 彦根高商 |
入社 | 野村証券 |
配偶者 | カトリック娘(仲人伊部頭取) |
主な仕事 | 野村銀行、京大、弁論部長、住銀、MOF担当、吹原事件、安宅問題、アサヒ、スーパードライ、ウンチ本社ビル、豪州販路 |
恩師・恩人 | 堀田庄三(秘書)、村井勉 |
人脈 | 堀田・伊部・磯田銀行路線、中坊公平(親戚)奥村綱雄、安藤太郎、瀬島龍三、瀬戸雄三、安藤忠雄、五十嵐喜芳 |
備考 | 生前香典請求,クリスチャン |
1926年(大正15年)1月25日 – 2012年(平成24年)9月16日)は京都生まれ。実業家。アサヒビール中興の祖。住友銀行業務部時代の上司で、前任の東京支店長でもあった、8年先輩の村井勉前社長に招かれ、1986年(昭和61年)、アサヒビール(現:アサヒグループホールディングス)の社長に就任。1987年(昭和62年)、アサヒスーパードライを発売して大ヒットさせる。1995年(平成7年)から経団連の副会長も務め、1998年(平成10年)には当時の小渕恵三内閣総理大臣に請われて首相の諮問機関・経済戦略会議の議長に就任。敬虔なカトリック信徒としても有名であり、大学時代は同じ大学にいた本島等(元長崎市長)と仲が良かった。
1.商売敵からの助言(アサヒ復活の原点)
私は銀行の事業調査部時代にビール業界を担当したことがあるが、ビールについては所詮素人である。入ってすぐ、何が問題であるか、わかるわけがない。社内に聞いてもあけすけに言う人はいない。ご同業に聞くのが一番早いと思い立ち、挨拶を兼ねて早速訪ねた。まずダントツのキリンビール。お目当ては小西秀次会長である。京都大学の先輩だ。小西さんはかなり率直に話してくださった。
「麦は地域により作柄が毎年変わるのに、お宅は同じところからばかり仕入れている。それはマンネリで発展性がない。そのうえ販売面では店先のビールが古くて味が落ちている」、と。これに味をしめて、サッポロの河合滉二取締役相談役を訪ねた。ここでも「アサヒはビールが古すぎる。古いものを一生懸命売ろうとしても無理だ」「仕入れ原料も高いようだ」と同じことを言われた。
会社に戻って確認すると、お二人の話はすべて「そうだ」というので、直ちに手を打った。世界でも前例がないという意見もあったが、製造3か月を過ぎた古いビールは、思い切って問屋さんや販売店などから全部買い戻して捨てた。これで18億円ほど費用がかかった。工場には、「コストにこだわらず、いいものを作るのが君たちの仕事だ。利益については社長が責任を持つ」と言った。
2.スーパードライの成功
「スーパードライ」が爆発的にヒットしたのは、理屈だけでは説明できないものがある。その前のコクがあってキレがいい「アサヒ生ビール」、いわゆる「コク・キレ」ビールもかなり売れた。しかし国立醸造研究所を訪ねた時、技官の一人が「おかしいですね。アサヒが売れないとは」と言う。「どうしてですか」と訊ねたら、3社のビールは基本的に同じコンセプトでみんな一緒。せいぜい製品が新しいか、古いかくらいの違いだと言う。データを見せてもらったら、なるほど納得だ。これは思い切ったイメージチエンジを図るしかないと決意した。
運がいいと言えば、偶然休日にドイツビール雑誌を後にも先にも1冊だけ読んだ。何でも、ビールに含まれるアルファ酸が世界的に平均7%減っているという記事だった。「これは何や」と、技術担当に聞いたら、「それは苦みを作るもので、それが下がってきたということだ」と言う。ビールの味が世界的に変わってきていることに気づかされた瞬間だった。
スーパードライにしても最終的な味は消費者5千人を対象にした市場調査によって決めた。このような大規模な調査は業界では珍しく、これによってすっきりした味が求められていることがはっきり確認できた。こうして1987年(昭和62)3月、すっきりした飲み口の全く新しいビール「スーパードライ」を発表した。当初の販売目標は、年間100万箱(1箱大ビン20本)だった。ところがその年の販売は1千3百50万箱を超えた。翌年も何と7割増を記録して、シエアは13%から一挙に21%に跳ね上がり、業界3位から2位に躍進した。
3.堀田庄三さんの訓え
1964年(昭和39)4月に38歳で東京の住友銀行五反田支店長になったが、吹原産業詐欺事件を無事乗り切ることができた。翌年5月に堀田庄三頭取の秘書役への異動を命じられた。堀田頭取は住友銀行の中興の祖である。白髪で眼光鋭く、頭脳明晰な方だった。モノを考える時の集中力は怖いほどで、近寄りがたい威厳があったが、私は生意気にも人間には変わりはないだろうという意気込みでお仕えしたので、かえってかわいがられたように思う。「頭取、もっと庶民性も持ってください」。「持っているよ。そんなことを言うのはお前一人だ」とたしなめられたこともあった。
堀田頭取のお供で吉田茂首相をはじめ政財界の大物たちにもお会いすることができた。地位の高い偉い人にたくさんお目にかかったが、素顔はみんな普通の人で、人間としては私たちとそんなに違いはないのではないかと思った。共通しているのは威張らない点である。大きな人物ほど、自分の力をいたずらにひけらかさないものである。人を見て、地位に驚かなく訓練ができたのは堀田さんの秘書をやったお陰だ。
3年半の頭取秘書役を終えると、堀田さんは送別の席を個人的に持ってくださった。赤坂の料亭で初めて差し向いで座り、ねぎらいの言葉を少しはいただけると思っていたら、全く逆だった。夕方6時から延々4時間半、料理の冷めるのも構わず、あの時のお前はこういう点が悪かったという具合に、覚えている限り年月をあげて叱られた。お前は、調子に乗るときがある。物事を良く考えずに早飲み込みで動く。こざかしい。要は知に溺れるなというわけである。私の思い上がりを鋭く突いていて、骨身にしみた。一秘書役に過ぎない私を、あれほど真剣に叱った下さるというのは並々ならぬことである。今では、涙が出るほどありがたく思っている。