掲載時肩書 | 日本鋼管会長 |
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掲載期間 | 1985/01/01〜1985/01/28 |
出身地 | 佐賀県長崎育ち |
生年月日 | 1909/12/13 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 76 歳 |
最終学歴 | 一橋大学 |
学歴その他 | 東商予科 |
入社 | 日本鋼管 |
配偶者 | 画家の娘 |
主な仕事 | 鶴見造船合併、鋼管鉱業、福山製鉄所、扇島、需要予測、観測船「宗谷」、日加経済人会義代表 |
恩師・恩人 | 白石元次郎(創設者) |
人脈 | 徳川夢声・牛場信彦(一中)、太田哲三,土光敏夫、橋本栄一、両角良彦 |
備考 | 実母兄(槇田)に養子、食道楽、南極観測船「ふじ」「しらせ」建造 |
1909年12月13日 – 1989年4月24日)は佐賀県生まれ。実業家。戦後、京浜工場など、鉄鋼業界のなかで戦略爆撃を一番手酷くやられた日本鋼管も朝鮮特需、高度経済成長に乗り復興し、槙田も昭和46年から55年まで社長を務めた。その間、日加経済人会議の世話人に就任、カナダへの直接投資に積極的であった。のち、会長、相談役。
1.鉄鋼業のコスト削減にバラ積み専用船ブーム
豪州から豊富な原料が安定的に入るようになったことが、日本の鉄鋼業の発展を大いに助けた。鉄のコストの半分以上を原料が占めているが、その原料を海岸に立地している製鉄所まで大型船で大量輸送することによって、コストを引き下げることができたからである。
それに加えて威力を発揮したのが、鉱石や原料炭の専用船である。当時の日産汽船(後の昭和海運)の伊藤幸雄社長、末永俊治専務と相談して計画を練り、わが国初の鉱石専用バラ積み船「日隆丸」(1万5千重量トン)を日本鋼管の清水造船所で建造、29年(1954)に引き渡したのである。当時のバラ積み船といえば1万トンクラスが普通だったので、「あんなデカイ専用船を造ってどうするんだ。今に困るぞ」という批判も出た。しかし、自慢するわけではないが、これで製鉄会社の運賃負担が一段と安くなり、船会社も積み荷保証と安定した運賃収入が得られるようになったのである。こうして専用船ブームを迎えたわけである。もっともその時は、まさか20万トン以上の専用船が出現するとは思わなかった。
2.日本鋼管の特徴
昭和15年(1940)に鶴見製鉄造船を吸収合併して以来、日本鋼管は鉄と造船を兼営する世界でも珍しい会社となった。ただ鉄と船では肌合いというか、気風がまるで違う。鉄は良い機械を買って据え付け、良い材料を使えばある程度品質が決まってくる。もちろん技術力が前提にあることは言うまでもない。それに最終製品でないこともあって、じぶんでつくったという実感が乏しい。
ところが、造船はそうはいかない。例えて言えば、一人ひとりがノミをもって一隻の船を造り上げるようなものだ。だから苦労して船を仕上げた関係者が引き渡し式に集まって、船出の瞬間を見守っているうちに「ああ、やっとできた」と感激し、涙をこぼすこともある。
簡単に言えば、装置産業と労働集約産業の差ということだが、その違いは組合運動にも出てくる。人事、労務担当だったころからそれを痛感していたのだが、鉄の場合は何かあるとパッとまとまる。ところが船の場合は、労使交渉をしているうちに組合の中で意見が分かれる時がある。どちらがいいとか悪いというのではなく、肌合いの違いからくるものだろう。
3.日本鋼管が養豚業も
日本鋼管が豚を飼っていると言ったら、初めて聞かれた方は、「鉄とブタ」の組合せに奇妙な顔をされるかも知れない。しかし、間違いなく飼っている。その場所は、群馬県の草津温泉から車で30分ほど奥に入った六合村という山村である。昔はここに群馬鉄山という鉱山があった。これを採掘していたのが鋼管鉱業で、私はその社長だったが、40年(1965)に閉山したのである。当時六合村の人口は約4千人で、そのうちこの鉱山には地元の人たちが、200人ぐらい働いていた。ところが閉山で仕事がなくなってしまったので、責任者の私は何とかしなければ・・といろいろ考えた。
まず手を付けた仕事は厚生施設の建設で、自炊のできる山荘を4軒建て、「奥草津鋼管休暇村」として、51年(1976)にオープンした。しかし、これだけでは採算が取れないから、生産的なものをつくろうと思い、考え付いたのが村の人たちみんなで取り組める養豚業だった。このため敷地内の約1万5千坪(5万㎡)の土地をこれに充てた。そして鋼管開発、日本鋼管と、地元の有志が55年〈1980〉2月に「奥草津農業組合」を設立した。放牧場の整備や分娩舎、育成舎、肥育舎などの建設は巷間開発が当たった。すべての設備が整ったのが56年1月で、これらの設備を地元の組合が運営するという形をとった。