掲載時肩書 | 東京女子医大病院長 |
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掲載期間 | 1973/05/23〜1973/06/19 |
出身地 | 福井県 |
生年月日 | 1910/10/13 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 63 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 六高 |
入社 | 入局(外) |
配偶者 | 貿易商 娘 |
主な仕事 | 失敗珍談披露、東京女子医大教授、日本心臓血圧研究所、外科・内科・小児科連携 |
恩師・恩人 | 長兄(榊原十全設立)、福田保教授 |
人脈 | 石田和外、若月俊一(佐久)、木本誠二、中山恒明、田坂定孝、喜多村孝一 |
備考 | 兄弟4人医師 |
1910年10月13日 – 1979年9月28日)は福井県生まれ。医学者。心臓外科の世界的権威として知られた。1946年に帰国、東京帝国大学医学部第二外科講座で医局長を務めた。1950年、東京女子医科大学外科主任教授に就任。1967年6月、自らが発起人となり財団法人日本心臓血圧研究振興会を設立。1973年から1976年まで筑波大学副学長。1977年東京の代々木に心臓病専門病院の榊原記念病院を設立した。1956年にはTBSラジオで史上初の心臓手術の実況中継が行われた。
1.慌て者(失敗談)
傘、時計などどれくらい”社会奉仕“したか数えきれない。会合の帰りに他人の靴を履いて帰る、人の車に乗り込むのは朝飯前、頼まれた仲人を70数組やったが、あいさつで新郎新婦の名前を間違え、恨みを買ったのは何度あったことか。
高校一年のころ、風呂屋から帰って休んでいると、番台にいたおかみさんが息せききって駆け付け「着物が変わって大騒ぎだが、もしや」という。そう言われて自分のを見ると、全然違う着物を着ている。それ以来、女湯でゲタが変わっても、あの学生に違いないと、聞きに来る始末だった。友人の不在中に家に上がり込み、本を読んでいると、見知らぬおばさんが怪訝な顔をして「あなた、どなた?」という。私も、ハテ見たこともないと思ってわけを話すと、その家は隣ですよ、と言われ、お詫びもそこそこに一目散に逃げだした。
2.戦後(1946)すぐの生活糧・研究
自炊生活は食糧難で、何とか生活の糧を得る方法を躍起になって考え始めた。いま顧みればユーモラスなプランばかりだが、当時は死活問題だから真剣そのもの。茶、飴の仲買、羊、やぎ、うさぎ、ミツバチの飼育、イーストの増殖販売、酒づくりなど、本気で研究した。特にミツバチは実際に四国から買ってきたが「オレに任せろ」と引き受けた人が全滅させてしまってダメ、イースト菌は紙袋まで用意したがうまくいかなかった。だが、研究の余禄とでもいおうか、アルコールにレントゲンをかけると悪臭が消え、おいしい酒になることなどを発見した。
3.日本心臓血圧研究所(内科・外科・小児科連携で成果)
昭和20年代の後半からは、心臓外科の基礎研究、術式の開発、およびそれらへの臨床への応用と、心臓病一筋に明け暮れたが、知識、技術ともに高度になるにつれ、より体系だった行き方が必要と痛感、専門の研究施設を設けた。昭和30年(1955)4月、東京女子医大の一部に設置した日本心臓血圧研究所がそれである。
この心研の発足は研究を進めるうえで大きなプラスをもたらし、次々と成果を上げていったが、同時に臨床面にも新たなやり方を取り入れた。どんな病気でもそうだが、患者を診察する際、内科、外科、小児科などきっちり横割りになっている。しかしこれでは病気の全体像を捉えられないおそれが生じる。特に心臓病には子供もいるし老人もいる。全身の諸臓器にも変化があるし、治療もある時期には手術を、ある時期には内科治療をというようにせねばならぬ。すなわち内科、小児科、外科、さらに基礎医学や医学以外の学者まで一体となって取り組む必要がある。
そこで外科の”専売特許“であった手術に内科、小児科の先生方にも一緒に加わってもらい、手術というものを理解してもらった。手術前後の治療も各科が一緒になって行った。もちろん外科の先生を内科的治療に精通するように教育してもらったことはいうまでもない。各科が垣根を取り払い、連係プレーが出来るようにした結果、手術成績や術後の治療成績がぐんと向上したばかりでなく、各医師が幅広い視野から治療方針を決められるようになったのは目に見えないヒットだと思っている。