掲載時肩書 | 経団連副会長 |
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掲載期間 | 1968/01/01〜1968/02/06 |
出身地 | 東京都飯倉 |
生年月日 | 1894/03/12 |
掲載回数 | 37 回 |
執筆時年齢 | 74 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 慶応幼稚、一高 |
入社 | 農商務省 |
配偶者 | 富井教授二女 |
主な仕事 | 大臣秘書官、欧米視察、企画院、石炭統制会、日本工業倶楽部->日本経済連盟会(団琢磨)->経済団体連合会 |
恩師・恩人 | 渋澤敬三( 父の葬儀長) |
人脈 | 小泉信三、町村金吾、獅子文六、船田中、一万田尚登、岸信介、遠山元一、多人脈 |
備考 | 父恩師:渋沢栄一 |
1894年(明治27年)3月12日 – 1978年(昭和53年)8月1日)は東京生まれ。昭和初期から後期(1920年代 – 1970年代)の財界人、官僚。農商務省に入省。大臣秘書官、資源局調査課長を務めた後、企画院調査部長となり、国家総動員法策定の指揮を執る。1940年(昭和15年) 企画院次長。1941年(昭和16年) には九州の石炭王・松本健次郎に請われて、「石炭統制会」の理事長となる(松本が会長)。経済団体連合会(現:日本経済団体連合会)創設に加わり事務局長となるも、公職追放となる。解除後、第3代経済団体連合会(経団連)会長(1968年(昭和43年) – 1974年(昭和49年) )。札幌オリンピック組織委員会会長。「私の履歴書」では、戦前政府の行政裏面を、戦後は民間団体の裏面史を語ってくれていた。
1.官庁採用の目安点数
大正4年(1915)、東京帝国大学法学部政治学科へ入った。大学生になったのだから勉強をしないではない。一応勉強すれば75点ぐらいはとれる。80点となれば参考書も読んで内容を身につけないと難しい。平均点80点以上となれば1点上がるにも大変な努力をしなければならない。そして85点ともなれば銀時計候補者である。平均点78点ぐらい以上がその頃の官庁第一次採用の標準ではなかったか。
2.初年兵の風呂
24歳のとき、第一乙種だったが1年志願で麻布の歩兵第3連隊へ入隊した。新兵の入浴はいつも一番あとだが、特にキャンプ地が水に乏しい所ではくず湯のような風呂に入ることになる。習志野のとき、あまり汚いので入らないでいると、ふくらはぎにネブトができた。痛くて熱が出て手術となったが、手術刀を執るのは上等看護卒。もちろん麻酔などしない。「痛いぞ、がまんしろ」。なるほど新兵はつらいものだと思った。
3.妻の私への結婚相手評価
私の結婚相手は東大で民法の講義を受けた富井先生の二女淑(よし)であった。後日談であるが、妻の話は面白い。妻の親友3名で私の写真を見て品定めしたらしい。大体及第だが、一つ、毛が薄い人ではないか、先が思いやられる、という発言があったらしい。予言の通りであった。いま一つ、7月試験が終わると富井先生は答案を調べて採点する。そして人名表に書き入れるわけである。何点と言われると個人名を探し出すのが妻の役目であった。人名は前の試験の成績順に書かれてある。83点以上ともなれば第一覧の上方を見るとたいがいその人の名がある。私のは第二欄の終わりまたは三欄の初めであったという。学校成績の問題になると標準が高いので迷惑する。私には都合の悪いことであった。
4.関東大震災の当日と翌日
大正12年(1923)9月1日(土)の昼頃、工務局長の四条さんが私の部屋に来て「きょう鎌倉へ行くかい」「用が終わったら泳ぎに行こうと思っています」と言い終わるか終わらないか、そのときである。あの激震が目の前の次官室との隔壁の隅はパクパク口をあけている。思わず机につかまった。市街から火の手があがり、庁舎におよび官邸にも影響が出はじめた。省議を開いて善後措置を早急に決定しなければならない。大臣、次官はじめ官邸に集まっている人もあるが、所要人物がなかなか揃わない。そのうちに官邸付近にも火が回ってきた。こうなると大臣もこ使いもない。バケツリレーで何とか類焼を免れたのだった。
翌9月2日、山本権兵衛内閣が成立し、日暮れてから親任式があり、内閣総理大臣官邸の庭でちょうちんの灯で初閣議が開かれ、直ちに各大臣の事務引継ぎが行われた。市街の延焼はなお止まらず、空は赤く明るい。避難民は親類縁故を頼って夜中でも歩いている。公園、広場には家なく夜を明かす人の群れがいる。そこへ朝鮮人騒ぎの流言である。食糧の問題も見通しは全く立たない。ここは首都であり、また渦中にいると何か落ち着かない。凄然たる夜であった。
ここで経団連結成の経緯について述べたい。それには経済団体の変遷から述べる必要がある。日本の経済団体は、まず地域団体として明治時代に商業会議所が生まれ、その後経済の発展とともに業種別団体が結成された。各種同業組合、また鉄鋼、造船、機械などの工業会がそれである。そして大正六年には、これら業種別工業団体を総合する団体の働きをした日本工業倶楽部が誕生した。さらに大正十一年には、工業だけでなく金融、貿易などを加えた総合団体、日本経済連盟会(会長団琢磨氏)が発足した。
第一次大戦後、日本の経済力が諸外国に認められてきたときでもあり、その後経済連盟は国際経済問題についても政府に意見を具申し、また自身でも諸外国と交渉するなど、最高の総合経済団体として活動した。やがて準戦時体制下にはいっても、経済界の総力を結集して政府に建言、いわば財界奥ノ院として重きを加えていった。戦時経済下の統制時代にも、経済連盟は官僚統制を避けて民間の自主統制体制をとるべしとし、重要産業統制団体協議会(昭和十六年一月)を結成、さらに同年十一月には政府に建言して鉄鋼、石炭、セメントなど十二の重要産業に法令による統制会を作るなど、独自の戦時経済体制を打ち出した。
終戦とともに占領軍に対し経済界の窓口を一本化する必要が生じ、二十年九月には経済連盟会、重要産業協議会、日本商工経済会、商工組合中央会の四団体で経済連合委員会(会長=経済連盟会長井坂孝氏)の創設となり、翌二十一年五月、経済連盟解散、同年八月、経済連合委員会を母体に、経済団体連合会の発足を見るのである。
(「私の履歴書」経済人十巻 300,301p)
私が経団連に復帰したのは、パージが解けた5年後の26年9月であった。最初は相談役、次いで副会長に就任した。会長は石川一郎氏(23年就任)だった。
うえむら こうごろう 植村 甲午郎 | |
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経団連会長時代の植村甲午郎 | |
生誕 | 1894年3月12日 東京府東京市 |
死没 | 1978年8月1日(84歳没) 東京都 |
墓地 | 多磨霊園 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京帝国大学法学部政治学科 |
職業 | 実業家、財界人、日本航空会長、フジテレビ会長、ニッポン放送社長、会長、経団連会長 |
植村 甲午郎(うえむら こうごろう、1894年(明治27年)3月12日[注釈 1] - 1978年(昭和53年)8月1日[1])は、昭和初期から後期(1920年代 - 1970年代)の財界人、官僚。札幌オリンピック組織委員会会長。
経済団体連合会(現:日本経済団体連合会)創設に加わり事務局長となるも、公職追放となる。解除後、第3代経済団体連合会(経団連)会長(1968年(昭和43年) - 1974年(昭和49年) )。
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