掲載時肩書 | 元中央教育審議会長 |
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掲載期間 | 1976/02/02〜1976/03/01 |
出身地 | 広島県 |
生年月日 | 1888/12/23 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 88 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 助手 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 経済学部、森戸事件、大原社会研究所、渡独、マルキシズム、憲法修正、社会党議員、文部大臣、中教審 |
恩師・恩人 | 新渡戸稲造(校長)、高野岩三郎 |
人脈 | 阿部能成、和辻哲郎、菊池寛、大内兵衛、河合栄次郎、大杉栄(10ケ国語)、河上肇、賀川豊彦、屋良朝苗 |
備考 | クリスチャン |
1888年(明治21年)12月23日 – 1984年(昭和59年)5月28日)は、日本の学者、社会思想家、教育者(初代広島大学学長・名誉教授)、政治家(衆議院議員、文部大臣)。教員の地位向上に努め1952年、日本ユネスコ国内委員会発足で副会長(のち会長)、国際会議・総会に度々出席し日本のユネスコ参加に尽力。東京に戻ると文部大臣の諮問機関・中央教育審議会会長に推されて就任。池田内閣が「人づくり」は国造りの基礎であるとし、人間形成の重要性を国民に訴えたのを受け1971年(昭和46年)生涯教育、奨学制度問題、教師の職制・給与の改善等を柱とする「第三の教育改革」を答申する。これは30年以上経った現在も臨時教育審議会の参考資料として利用されるなど、教育改革の実施に強い影響力を及ぼしている。
1.新渡戸稲造校長と内村鑑三氏の説得法
明治40年(1907)、私は第一高等学校に入学した。新渡戸先生は1年前に校長になっておられた。私が1年の時、先生の倫理の講義があった。また課外講義があり、誰でも参加できた。ダンテの「神曲」、ゲーテの「ファースト」、ミルトンの「失楽園」などを紹介して、所感を述べる。これは多くの学生に深い感動を与え、教室はいつも満員だった。また先生は「面会日」というのを設けた。「生活に困っています」「恋愛問題で悩んでいます」などのいろいろな学生からの質問を、先生の受け答えは独特で、具体的解決策は与えない。示唆的な返事をして、学生に選択の余地を残すものだった。
先生と同じ札幌農学校出身の内村鑑三は比較的断定的論理を展開するが、新渡戸先生はドグマを出さないやり方であった。個々人の内面の発展、あるいは人格形成を助けようとする姿勢であり、カウンセリングでした。
2.キリスト教と社会主義と関連する著名人アンケート
昭和6年(1931)、大原社会問題研究所から全国の社会運動家・社会主義者たちに質問状を出した。対象者は、改造社の思想家名簿、無産政党や労働組合の幹部、3.15、4.16事件の関係者の中から約300人を選んで依頼し、125名から回答を得た。回答者の中には、荒畑寒村、安部磯雄、堺利彦、吉野作造、河上肇、賀川豊彦、山川均、山川菊栄、猪俣津南雄、鈴木文治、布施辰治、市川正一、野呂栄太郎、小泉信三、大塚金之助、村山知義、小川未明、西尾末広、加藤勘十などの諸氏がいた。昭和初期のいわゆる進歩的知識人は殆ど含まれているとみていいだろう。
私は回答を問題別に細かく分類し、数学的に総括してみた。すると、回答者の約3割はかってキリスト教の信者か現に信者だった。生家の経済状態は「貧」が24%、「富」はわずか1・6%であるのに、「中産」が66・4%と最も多い。一つ注目されるのは、「零落」した家に育った人(私も含まれる)が非常に目立ったことで、全体の33・6%がこれに属していた。
3.第3の教育改革(生涯教育)・・・中央教育審議会会長時代
昭和46年(1971)6月、4年間の検討を経て答申を坂田文部大臣に出した。私はこの第3の教育改革に3つの柱を立てた。まず「生涯教育」である。これは、人間の一生を通じて行われる家庭教育と、学校教育・社会教育を新たな立場で一つの体系に統合したものである。
3分野の中にあって学校教育が自己閉鎖的なものとなることなく、広い視野と学習能力を育成すべき方向を生涯教育は要請している。次に、日本近代の過去2回の教育改革は政治改革の下請けのごときものであったが、今回は教育独自の立場で進める。さらに、教育課程、教員の人事・処遇、大学入学者選抜制度などの改善や主任制度を含む学校内の管理組織と教育行政体制の整備、私学の財政援助方式と受益者負担および奨学制度の在り方など、広い分野にまたがっている。特に奨学制度である育英会の充実発展に深い関心を払って答申した。
この記事は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。 (2009年3月) |
森戸 辰男 もりと たつお | |
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1956年度広島大学入学式で | |
生年月日 | 1888年12月23日 |
出生地 | 日本 広島県福山東堀端 (現・広島県福山市) |
没年月日 | 1984年5月28日(95歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法科大学経済学科卒業 (現・東京大学経済学部) |
現職 | 広島大学学長 |
所属政党 | 日本社会党 |
称号 | 勲一等瑞宝章 勲一等旭日大綬章 |
第63・64代 文部大臣 | |
内閣 | 片山内閣 芦田内閣 |
在任期間 | 1947年6月1日 - 1948年10月15日 |
選挙区 | (広島県全県選挙区→) 旧広島3区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1946年4月10日 - 1950年4月18日 |
森戸 辰男(もりと たつお、1888年(明治21年)12月23日 - 1984年(昭和59年)5月28日)は、日本の学者、社会思想家、教育者(初代広島大学学長・名誉教授)、政治家(衆議院議員、文部大臣)。広島県広島市、福山市名誉市民[1]。文化功労者(1971年)、勲一等旭日大綬章(1974年)。