梅若六郎 うめわか ろくろう

映画演劇

掲載時肩書能楽師・芸術院会員
掲載期間1968/02/07〜1968/03/06
出身地東京都
生年月日1907/08/03
掲載回数28 回
執筆時年齢61 歳
最終学歴
小学校
学歴その他
入社4歳で初舞台
配偶者病弱
主な仕事寒稽古(4時~6時:低3曲、夜8時―10時半:高3曲)30日で180曲、婦人能、蒔能、大衆能、芝居好き、
恩師・恩人伯父万三郎
人脈3名人(宝生九郎、、金春・桜間伴馬、 梅若実)5家(観世、宝生、金春、金剛、喜多)、白洲正子、益田孝、川田順、武原はん、
備考橘諸兄先祖
論評

55世六郎(1907―79)は東京生まれ。能の観世流シテ方、梅若本家の通名。2世梅若実の長男で、美貌と美声に恵まれ、艶麗(えんれい)な芸で多くの人を魅了した。現行曲のすべてを完演、公開の演能の数では2000番を超す史上最多の舞台を勤めた。ギリシアほか海外にも足跡を残す。

1.明治維新後の能・関係者
維新のときは、将軍なり大名なりのお抱えがとかれたものですから、能にたずさわるものは、誰もかれも困ってしまい、面、装束などは、二束三文で売り払って、あすの生活がわからないという状態だったとのことです。タバコ屋や薬屋をする人などは良い方で、庭師の下働きや、うちわ張りの内職をしたり、中には、暮らしに困って行方不明になった、気の毒な方もあったようです。

2.子供けいこ
このけいこは、青木只一という古い弟子がしていました。そのころはまだ字が読めないので、帳面にカタカナで青木さんが書いてくれ、それを覚えてけいこするのです。もちろん、自分の役のところだけで、青木さんに下げいこしてもらい、父のところで直してもらいました。
 小学校時代、帰ると一時間ぐらい何もないところで、片膝を立てて座るけいこをさせられたのですが、これは少しこたえました。膝を立てない方の足を、ペタッと板につけてしまうような座り方なら楽なのですが、姿勢を美しくするために、つま立っているのが、子供心に辛かったのです。しかし、そのおかげで、座る姿勢ができて大変良かったと思っています。

3.寒げいこ(12月1日から1か月間)
朝は4時から6時までですが、寒い時分ですので、終わっても、まだ皆起きてきませんから、あと30分くらい仕舞のけいこをしました。それからあたたかいお粥をいただくのです。夜は8時から10時半ごろまでで、もし、夜どこかへ遊びに行っていて12時までに三番やれないと、その翌日からまたやり直しですから、けいこ中は、どこにも遊びに行けません。朝は低い声で呂(りょ)の声を勉強し、夜は高い声で甲(かん)の声を勉強しました。けいこ中に眠くなりますが、鉛筆やキリのような先のとがったものを膝に立てて、眠くなってコクリとすると、その先がチクリとささるので、ハッとして眠気を覚まします。
 声の方も、1週間から10日ぐらいするとつぶれ、少し出血もしますが、ここで止めてはいけないと言われて続けておりますと、中頃には声が全然出なくなります。それが20日過ぎころから少しずつ出るようになって、私は、お正月には、普通の状態にもどりました
 このけいこのお蔭で、以後、いくらうたいましても、声をつぶすということがありません。また、一日6番ずつ、1か月全部で180番うたわないといけませんので、否応なしに多くの曲を覚えまして大変良かったです。

4.薪能、婦人能、大衆能、劇場能を開く
これらの新しい能はすべてわたしどもが始めたものです。婦人能は、白洲正子さんが最初で、あの方が樺山伯爵の令嬢でいらした15歳のときでした。おとうさまから「娘がアメリカに留学するので当分できないから能を舞わせたい」とけいこを頼まれたからです。私が17歳で出し物は「土蜘蛛」でした。
 大衆能は、能の入場料を安くして大勢の人に見せようと企画し、昭和12年ごろ、年2回、日比谷公会堂や九段の軍人会館を借りたりしました。当時入場料5円だったのを2円と1円、学生は50銭に割引です。
 野外能は、日比谷の新音楽堂でおこない、ちょうど皇太子さまご誕生のおめでたのときでした。
劇場能は東京の帝国劇場が初めてです。太平洋戦争中、この劇場は大政翼賛会がずっと使っていたのですが、終戦で翼賛会が解散したので社長の秦豊吉さんが「元の劇場にしたいので格式のある能を・・」との要請からでした。

梅若六郎(うめわか ろくろう)とは、シテ方観世流の一派、梅若家の当主が用いる名。

同名に付けられる序数は当代までで56世に及び、これは日本の世襲称号としては類を見ない数である。これは、同名がはおろかその源流である猿楽が始められるよりも更に前から名乗られ続けた名であることを意味する。なお、この序数56は下記する橘諸兄から数えたものであり、実際に梅若六郎を名乗ったのは40数代とされる。

梅若家の祖は奈良時代の皇族・貴族である橘諸兄にまで遡るとされ、その10世孫である従五位下梅津兵庫頭橘友時により梅津氏が立てられたことを基とする。梅津氏はその後山城国から丹波国に移り、時期は不明だがいつしか猿楽を始めるようになり、能の大家の一つとなった。

当代の梅若六郎梅若六郎 (56世)。1988年襲名。

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