掲載時肩書 | 国立民族学博物館顧問 |
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掲載期間 | 1996/01/01〜1996/01/31 |
出身地 | 京都府 |
生年月日 | 1920/06/13 |
掲載回数 | 31 回 |
執筆時年齢 | 76 歳 |
最終学歴 | 京都大学 |
学歴その他 | 三高 |
入社 | 大阪市大 助教授 |
配偶者 | いとこ (今西教授仲人) |
主な仕事 | 京大2回留年、白頭山、樺太、モンゴル、ローマ字、エスペラント語、 人文科学研、民族学博物館 |
恩師・恩人 | 今西錦司 |
人脈 | 川喜多二郎、今堀栄三郎、柳田国男、小松左京、今和次郎、宮本常一 |
備考 | 66歳失明 |
1920年6月13日 – 2010年7月3日)は京都生まれ。生態学者、民族学者、情報学者、未来学者。1963年に発表した「情報産業論」はセンセーションを巻き起こした。今では当たり前の言葉になった「情報産業」という言葉を初めて用いた。日本における文化人類学のパイオニアであり、梅棹文明学とも称されるユニークな文明論を展開し多方面に多くの影響を与えている。京大では、今西錦司門下の一人であった。生態学が出発点であるが、動物社会学を経て民族学(文化人類学)、比較文明論に研究の中心を移す。
1.文明の生態史観(地球的文明論の発見)
1955年、戦後初めての本格的な学術探検隊が発足した。12名の学者からなり、木原均総隊長が指揮するヒンズークシ隊と今西錦司支隊長が指揮するカラコルム隊に分かれた。そしてパキスタン、アフガニスタン、イラン、インドの各地で半年のあいだ学術調査に従事した。
このインド亜大陸の横断旅行は、私に強烈な印象を与えた。イスラーム文明とヒンドゥ―文明という二つの巨大な文明に接して、世界の構造に関する見方はすっかり変わった。ここはヨーロッパでもなく、アジアでもなかった。西洋でもなく、東洋でもなかった。私は「中洋」を発見したのである。
戦争中の中国における2年間の経験と重ね合わせて見たとき、私は日本文明がそれらの諸文明とあまりにも異質なことを実感した。帰国後、旧世界における諸文明の関係とその中における日本文明の位置づけについて、私は一つの論文を書いて「中央公論」に発表した。「文明の生態史観序説」がそれである。
2.愉快な調査探検隊(四駆車を移動研究室に)
1957年夏に、大阪市立大学東南アジア学術調査隊を組織した。隊員は大学生物学教室の6名であった。今度は自動車を全面的に活用することにした。研究資材を全部ジープに詰め込んで、いわば移動研究室にした。6人のうちで、運転免許を持っている者は誰もいなかった。大急ぎで全員が免許証をとることにした。自動車学校へ通っている暇はないので、大阪の消防学校で消防自動車を借りて猛練習をした。年齢の若い順につぎつぎに合格して、私が最後になった。
3台のジープはそれぞれ型が違っていた。普通の軽ジープとワゴンの他にハシゴ車というのがあった。後部に油圧式のハシゴが付いていて、高いところまで届くようになっている。これで森林の樹冠の調査をしようというのである。1台に二人ずつ乗り込んで、交代で運転する。こうして東南諸国を走り回ったのである。
3.情報産業論の提唱
学術探検調査はつねに莫大な経費を必要とした。その調達も私自身の仕事であった。京大カラコラム・ヒンズークシ学術探検隊の場合も経費の三分の一は文部省から出たが、三分の一は朝日新聞社が出してくれた。後の三分の一は企業各社からの募金でまかなった。
資金源としては、戦前は新聞社が主力であったが、戦後には放送会社が加わった。私たちの仕事に対してはジャーナリズムはよき理解者であった。この業種は誠に奇妙なものに思えた。物質的なものは何も生産せず、情報だけで経済活動が成立しているのである。
考えてみると、放送、新聞のジャーナリズムばかりでなく、工業製品も含めて、実用的価値の他に情報的価値がたくさんくっついていることに気がついた。そして物質的生産の他に情報的生産があり、それはまるで別の原理に従っていることに気づいた。これらの点についての考察をまとめて「情報産業論」という論文を発表した。これは、私が後に繰り広げる一連の情報に関する文明論の最初のものとなった。
人物情報 | |
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生誕 | 1920年6月13日 日本 |
死没 | 2010年7月3日 (90歳没) |
出身校 | 京都大学 |
学問 | |
研究分野 | 民族学 |
研究機関 | 国立民族学博物館 |
梅棹 忠夫(うめさお ただお、1920年6月13日[1] - 2010年7月3日[1])は、日本の生態学者、民族学者、情報学者、未来学者。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、京都大学名誉教授、理学博士(京都大学、1961年)。従三位勲一等瑞宝章。日本中東学会初代会長を務めた。
1963年に発表した「情報産業論」はセンセーションを巻き起こした。今では当たり前の言葉になった「情報産業」という言葉を初めて用いた[2]。
1964年には自身を中心とした若手研究会による私的研究会「万国博覧会を考える会」を発足。小松左京が万博に参加するきっかけを作った[3]。
「京大式カード」の生みの親でもある。
アフガニスタン、東南アジアなどを実地踏査し、世界を西欧と日本の第一地域と、それ以外の第二地域とから成るとした『文明の生態史観序説』(1957年)を発表した。他の著書に『知的生産の技術』(1969年)など。