掲載時肩書 | インダストリアル・デザイナー |
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掲載期間 | 2002/08/01〜2002/08/31 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1929/09/11 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 73 歳 |
最終学歴 | 東京藝術大学 |
学歴その他 | 佛教大学 |
入社 | GKグループ(小池先生) |
配偶者 | 独身 |
主な仕事 | 江田島78期予科(3800人)、自転車・オートバイdesign、米国留学、卓上醤油瓶、住宅研究、こまち、成田express、 |
恩師・恩人 | 小池岩太郎、川上源一 |
人脈 | 黒川紀章、丹下健三、梅棹忠夫、千宗室、高坂正尭、海兵78(今井敬、成田豊、今村治輔) |
備考 | 代々:僧侶(父ハワイで布教) |
1929年9月11日 – 2015年2月8日)は東京生まれ。工業デザイナー。GKデザイングループ創設者。静岡文化芸術大学名誉教授。GKインダストリアルデザイン研究所所長、世界デザイン機構会長、第4代桑沢デザイン研究所所長、静岡文化芸術大学デザイン学部学部長などを歴任。フィンランドとは古くから交流を持ち、日本フィンランドデザイン協会の会長を長年務め、フィンランドのデザインやデザイナーが日本をはじめ世界で知られるよう尽力した。また中国のデザイン界にも大きな功績を残している。1979年「工業デザイン界のノーベル賞」といわれるコーリン・キング賞受賞。
1.海軍兵学校
昭和20年〈1945〉2月に合格電報が届いた。3800人が合格した。正式には海軍兵学校78期だが、通称は予科生徒と呼ばれていた。4月、この時期になると我々の78期の教育は江田島ではなく、長崎の針尾分校で行われた。1分隊が48人、12分隊集まって部になる。私は3部の第7分隊に所属した。
朝起きると、海に向かって号令をかける発声訓練。その後、上半身で海軍体操をする。3800人が寸分の違いなくきちんと並び、全員が同じ動作をするから実に壮観。号令も「レディー・ビギン」など全部英語だ。体操は海軍生徒必須の訓練だった。指導教官は髭をたくわえた堀内豊秋大佐である。開戦当時、セレベス島メナドの落下傘部隊の司令で、デンマーク体操を海軍に導入した。柔らかく猫のように敏捷でバランスのある身体をつくり上げることが目標だった。
2.デザイン開眼
昭和25年〈1950〉、東京藝術大学に入学できた。志望は最初から図案科だった。油絵や日本画、彫刻では食えないとの考えもなくもなかったが、それよりも図案は世のため人のためになるという意識が強かった。芸大1年のとき、母が住む広島のお寺の真ん中にCIE(米国文化センター)という建物が忽然と出現した。
CIEには付属図書館があった。縁の赤い眼鏡をかけ、香水がほのかに漂う女性ライブリアン(図書士)がいて、「絵を見たい」と言ったら出してくれたのが、「アート&アーキテクチャー」という雑誌だった。近代的な建物がたくさん出ていた。そのうち、私が芸術家の卵だと分って紹介された本が、ウォルター・ドーウィン・ティーグ著の「Design This Day」、レイモンド・ローウィ著「Never Leave Well Enough Alone(口紅から機関車まで)というインダストリアル・デザインの古典的名著だった。
CIEの外は米軍のGIが闊歩し、ジープに乗っている。米国文化が図書館の内外に溢れていた。芸大にもこんな本はまだなかった。工業製品の量産品にも美が与えられるということを教えられ、私はインダストリアル・デザインの世界に開眼した。これが人を救い、国を救い、民族を救う。自らも四分五裂せず、使命感を持ってやっていける道だと強く感じた。
3.米国留学
昭和31年〈1956〉には日本貿易振興会(ジェトロ)によるデザイン留学生派遣の募集があった。私は「今黒船に乗らなかったら、だれぞ行く」と言い張って、応募した。留学先はロサンゼルスにあるアートセンター・カレッジ・オブ・デザインで、新しい技術や表現などを教わった。一期生4人が半年前に来ており、我々二期生も政府機関からの一人を入れて全部で4人だった。我々の留学期間は1年で、その間、8人が学校に近い下宿で生活した。
学校では自動車デザインを専攻した。国費で留学し、自動車のデザインを専攻したのは、日本で私が最初だというのが自慢である。日本では鉛筆淡彩などでやるところを、米国ではキャンソン・ペーパーを使って、光で描く方法だった。立体感が出て、色を塗る必要もなかった。将来、日本で小型自動車をつくりたい思いがあったので、小さな自動車のスケッチをしていると、先生から「せっかく米国に来たのだから、アメリカの車も勉強して帰りなさい」と言われた。ここで圧倒的な物質文化との接触で、たくさんのデザインの芽が開いていったのは確かだ。
4.日本の伝統美学「奇麗に小さく」
昭和55年(1980)には、渋谷の我々のGKショップ・ギャラリーを使い、GK展を1年間行った。毎月テーマを変えて、デザイン漬けの毎日を過ごした。GK展を行った年に「幕の内弁当の美学」を出版した。この本では日本の伝統と現代、インダストリアル・デザインを結び付け、日本的発想の原点を探った。戦争で失われた日本人の誇りを取り戻すことが本の目的だった。
欧米の連中は、日本の自動車でも電気製品でも、品質はいいが、全部モノマネだと盛んに批判した。私は、それは、限られた場所にいろいろなおかずを奇麗に並べる幕の内弁当の美学が、形を変えて製品になっているのであり、日本人のオリジナリティーなのだ、と主張したかった。
幕の内弁当に限らず、日本にはコンパクトに凝集する伝統文化がたくさんある。限られた箱の中にたくさんのものなり情報を入れるのは、欲の深いことだけれど、それを美しくまとめるのが日本の美学で、俳句や和歌、盆栽、茶室などにも通じる特質である、などと書いた。この本は米国のMIT(マサチューセッツ工科大学)で英訳され、4年前に出版された。インターネットにも乗って、世界の各地から未だに講演依頼が来たりする。
氏は’15年2月8日85歳で亡くなった。「履歴書」執筆は2002年8月で72歳であった。建築家や服飾デザイナーの執筆者はあったが、インダストリアル・デザイナーは初登場であった。幼少期を父がハワイで仏教を布教していたため過ごした。海軍兵学校(78期)在学中に広島に原爆が落とされ、妹と父親を亡くした。焼け野原となった街の風景に衝撃を受け、モノを活かす工業デザインの仕事を志すこととなる。
代表作のキッコーマン醤油卓上瓶は、「醤油は日本の婦人の文化でもある。この醤油瓶を持つと、小指が上がってかわいい感じがする。美しい日本婦人というイメージを込めたのだ」と書いている。初代の秋田新幹線こまちやJR成田エキスプレス、ヤマハのオートバイの他、コスモ石油、ミニストップなど企業のロゴマークも数多く手がけ、ビジネスにデザインの重要性を認識させた。
また、幕の内弁当に「日本製品のオリジナリティーを認める」とオランダのフィリップ社重役に言わせた。重役は幕の内弁当を見て「美しすぎて、どこから手をつけて良いかわからない。これを壊すのは忍びない」と感嘆したそうだ。この時、彼は日本の伝統文化には世界性があると気づいた。色彩感覚、味の感覚、デザイン感覚も食文化に入っている。