掲載時肩書 | 囲碁棋士・名誉天元 |
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掲載期間 | 2003/07/01〜2003/07/31 |
出身地 | 中国台湾 |
生年月日 | 1942/05/06 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 61 歳 |
最終学歴 | 中学校 |
学歴その他 | |
入社 | 日本棋院 |
配偶者 | 中学同級妹 |
主な仕事 | 台湾、父;台湾副総領事、呉清源対局10歳、名人位になり蒋介石から国手(栄誉賞)に、国際棋戦、海鋒基金 |
恩師・恩人 | 呉清源 藤田悟郎 |
人脈 | 周至柔、本田幸子、梶原武雄、趙治勲6歳、藤沢秀行、加藤正夫、石田芳夫、大竹英雄(チクリン)、応昌期、高坂正堯、張栩(9歳)、林子淵 |
備考 | 父:東京大学 |
1942年5月6日 – )は上海出身。中国の囲碁棋士。名誉天元。日本棋院東京本院所属、藤田梧郎七段、呉清源九段門下。中華職業圍棋協会理事。海峯棋院設立者。元・全日本学生囲碁連盟副会長、特別顧問。名人8期、本因坊5期、世界囲碁選手権富士通杯優勝など獲得タイトルは35。史上2人目の1400勝達成。名人戦挑戦手合に10年連続出場。名人戦リーグに最長記録となる35期連続在籍。若い頃には地に辛く粘りのある棋風で「二枚腰」と呼ばれたが、壮年以後は戦闘的な棋風となった。同世代のライバルである大竹英雄とともに「竹林」とも称される。10歳で台湾から日本に来て、プロ棋士になり48年間で2000局近く戦い、1229勝740敗1無勝負、勝率6割2分と初日の「私の履歴書」に書く。年間に直すと毎年42局、日数間隔では8.6日に1回の対局となる。
1.呉清源先生との対局:
囲碁の天才少年といわれた彼が10歳の時、先生はまだ台湾にプロ棋士がいないときに来られた。歓迎式典も盛大に行われて、対局の栄誉を与えられた。集まった千人ほどの観客の前でコチコチとなったが、6子のハンディを与えられたのに少し不満を感じた。しかし、1目差で負かされ大ショックを受けた。これを救ってくれたのが、呉先生と同行して台北に来ていた、当時初段の本田幸子先生だった。このすぐ後に3子のハンディで対局させてもらい、4目勝たせてもらい自信を取り戻したと書いている。10歳の彼にとって、この本田先生の配慮がのちの将来を決めたことになると思えた。
2.木谷道場の思い出:
木谷實先生は呉清源先生とともに昭和初期に囲碁界を席巻した「新布石」を生み出したことで有名だが、多くの内弟子をとり、多くの一流棋士を育て上げて多大の貢献をされた方だ。道場の指南役は梶原武雄先生で木谷先生自体は自分の見解を言わず、時折ヒントを与える程度だったが、頑固で信念の人だった。1962年「木谷一門100段突破記念の夕」に招かれて参加した際、6歳の少年・張治勲と対局をさせられた。小さくてかわいい趙クンは盤の反対側に手が届かない(写真あり)。5子で対局したが、結局、負かされてしまった。この年齢の子供としてはけた違いの強さだった。私が呉先生と台湾で最初に碁を打ったのが10歳のときで、そのときは6子で私が負かされた。それと比べても6歳の趙少年の強さがおわかりただけるだろうと書く。
3.藤沢秀行(しゅうこう)先生の思い出:
囲碁は囲んだ地の広さを競うゲームで、先に地を稼ぐタイプと、手厚く打って追い込むタイプがいるが、秀行先生は坂田栄男先生とは正反対の典型的な「厚み派」だった。地は計算できるが、外の厚み多分に感覚的なところがあり、「異常感覚」とも言われるほどの独特の感覚の持ち主だった。先生に棋聖戦に2度挑戦したが、いずれも敗退した。先生は若い人が好きで、誰彼なしに打ってもらえたので、みんなに慕われていた。私も学ぶことが多く阿佐ヶ谷の「秀行塾」で大竹英雄さんらと教えていただいた。驚いたのは、先生は朝から酒を飲んでベロンベロンのときもある。私も時々呼び出されては碁を見てもらったり、早碁を打ったりしたが、どんなに酔っても碁について言うことだけは常に正確だった。
林海峰 名誉天元 | |
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名前 | 林海峰 |
生年月日 | 1942年5月6日(82歳) |
プロ入り年 | 1955年 |
出身地 | 中華民国 上海特別市 |
所属 | 日本棋院東京本院 |
師匠 | 藤田梧郎・呉清源 |
名誉称号 | 名誉天元 |
概要 | |
タイトル獲得合計 | 35 |
七大タイトル | |
棋聖 | 挑戦者 (1980・82・84) |
名人 | 8期 (1965-67・69・71-73・77) |
本因坊 | 5期 (1968-70・83-84) |
王座 | 1期 (1973) |
天元 | 5期 (1989-93) |
碁聖 | 1期 (1994) |
十段 | 1期 (1975) |
林 海峰(峯) | |
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プロフィール | |
出生: | 1942年5月6日 |
職業: | 囲碁棋士 |
籍貫地: | 浙江省鎮海県 |
各種表記 | |
繁体字: | 林 海峰 |
簡体字: | 林 海峰 |
拼音: | Lín Hăifēng |
和名表記: | りん かいほう |
発音転記: | リン ハイフォン |
林 海峰(りん かいほう、リン ハイフォン 、1942年〈民国31年〉5月6日 - )は、中華民国(台湾)の囲碁棋士。名誉天元。上海出身、日本棋院東京本院所属、藤田梧郎七段、呉清源九段門下。中華職業圍棋協会理事。海峯棋院設立者。元・全日本学生囲碁連盟副会長、特別顧問。
名人8期、本因坊5期、世界囲碁選手権富士通杯優勝など獲得タイトルは35で、囲碁棋士の獲得タイトル数ランキング歴代9位。史上2人目の1400勝達成。
名人戦挑戦手合に10年連続出場。名人戦リーグに最長記録となる35期連続在籍。
若い頃には地に辛く粘りのある棋風で「二枚腰」と呼ばれたが、壮年以後は戦闘的な棋風となった。同世代のライバルである大竹英雄とともに「竹林」とも称される。林海峯の表記も多く使われている。
現在、存命の名誉称号資格者・三大タイトル獲得経験者・碁聖位獲得者・十段位獲得者では大竹英雄名誉碁聖と並び最年長である[3]。