林原健 はやしばら けん

化学

掲載時肩書林原社長
掲載期間2003/06/01〜2003/06/30
出身地岡山県
生年月日1942/01/12
掲載回数29 回
執筆時年齢61 歳
最終学歴
慶應大学
学歴その他慶応
入社林原
配偶者三輪製粉社長次女(バイオリニスト)
主な仕事カバヤキャラメル、19歳社長、インターフェロン、メセナ大賞、美術館、バイオライト、チンパンジーセンター
恩師・恩人林原次郎(叔父)、結縁鋿吉、小幡功
人脈児玉誉士夫(学友父)、井深大、守分十、今村昌平、大塚明夫、長野泰一、大原謙一郎、江草安彦、ダライラマ(招へい)
備考趣味:空手、メセナ
論評

1942年1月12日~2020年10月13日)岡山県生まれ。実業家。1966年 大学卒業後、会社の中核事業をデンプン加工業から、デンプンの研究・開発を重視するデンプン化学工業にシフトすると宣言。1970年  研究部門を独立させて「林原生物化学研究所」を設立。1988年 インターフェロンαの製造承認を受け、大塚製薬・持田製薬より発売。1999年 チンパンジーの研究施設「類人猿研究センター」を設立。古美術品などを展示する「岡山美術館」(現「林原美術館」)を開館。

1.井深大さんの訓え
自宅の私の部屋に、晩年の井深大さんの写真を掛けている。井深さんには40年近く前にお目にかかってから亡くなるまで、教えていただくことばかりだった。初めてお会いしたのは、岡山に戻った年、1964年の秋だったと思う。知人の紹介で、4,5人連れだって、東京・品川に完成したばかりの、ソニー最初のカラーテレビ工場を見学するのが目的だった。ソニーが新しい家電開発に意欲を燃やしていた時期である。
 工場の方が案内してくれると思っていたら、社長だった井深さんご本人が出て来られた。気さくに分かりやすく丁寧に説明していただいた。見学の後、1時間ほど話をうかがった。井深さんは、技術開発と基礎研究の大切さを懇々と説かれた。製造業や、ものづくりの重要性を話されながら、「でも、不必要な頭を下げてはいけませんよ」とも言われた。井深さんは社長ではあったが、なお研究者・技術者魂を秘めておられた。研究と経営の両立を常に考えておられたのだろう。当時の自分の会社の状況を考えると、私にはその一言一言がこたえた。岡山に戻ってからも井深さんの言葉を考える日が続いた。
 井深さんに、「基礎研究に一番大切なものは」と訊ねたことがある。一言、「好奇心」との言葉が返ってきた。井深さん自身が好奇心の塊のようだった。「これに凝っているんだ」と言って、神社のお守りを見せられたことがある。お守りの中身を自分で工夫しておられた。気功のエネルギーを捉えようとアンテナの研究にも夢中だった。経営者は関心のあるテーマがあっても、どうしても自分の会社の経営にプラスかマイナスかを先に考えてしまう。興味と仕事を結び付けることは少ない。でも井深さんは、自分の興味に素直な心、好奇心を最後まで失われなかった。

2.世界に誇れる「微生物・酵素・発酵」技術
1960年代後半、嵐の中で舵をとりつつ、私は船を前に進めることに懸命だった。当時の売上は100億円にも届かなかった。主力品はやはり水あめ、ブドウ糖である。需要はあったが、価格競争は激しく価格を下げないと売れない。当然、赤字であった。研究開発は、「デンプン化学工業」に向けた挑戦が始まっていた。
 この開発目的は、「デンプンを100%アミロースにし、酵素で目的の大きさに分解する」ことだった。デンプンはブドウ糖が連なっているが、単純に真直ぐな状態ではなく、幾つもの枝が分かれている。まず枝を切って一直線になったアミロースにする。これを単体にするとブドウ糖である。このブドウ糖を2つ、3つと結合させて純度の高い糖を作る。最初の難題は、効率よく切り、付ける酵素を見つけることだ。
 枝を切る酵素探しが始まった。酵素を生み出す微生物は地中にいる。原田篤也先生の指導のもと、各地の土を集めてこの酵素を出す菌を追った。実に幸運なことに、着手して2か月ほどして、それも先生の研究室の庭にあった木の下から見つかった。1966年のことである。
わずかの期間で、デンプン世界の先端に立つことになった。偶然や運に恵まれたとしか言いようがない。「酵素・微生物」が私たちの力、独自の道になった。会社は一貫してこの道を歩んでいる。日本には酒、味噌など風土に育まれた微生物・酵素・発酵の世界がある。蓄積された多くの技術は世界に誇れる知恵だ。原子力に続く「第4の火」として、これを生かさなくてはとは思う。

3.インターフェロンとハムスター
このことで京都府立医大の岸田綱太郎先生を訪ねたのは1974年秋のことだ。インターフェロンはもともと人間の体にあって、ガンや風邪に対抗できる有用な生理活性物質の一つである。この世界最初の発見者は、岸田先生の友人で東大におられた長野泰一先生である。長野先生は、英国の学者が1957年に「インターフェロン」として発表する3年前に、「ウィルス抑制因子」として発表されていた。
 発見以来、インターフェロンは世界で様々な開発が進められ、このころ子供の骨肉腫というガン治療に効果をあげていた。岸田先生はこれを様々なガンに試そうとしていたが、研究用のわずかの量さえ確保が難しかった。インターフェロンは人の細胞の白血球から作るが、その白血球が圧倒的に不足していた。
 先生が注目されたのは、私どもが持つ微生物培養の発酵タンクである。先生から「これで白血球の大量培養ができないか」と提案され、私は受諾した。発酵技術の応用で可能かもしれないと思ったのだ。しかし、これは甘かった。微生物とヒト細胞の培養は勝手が違う。結局うまくいかなかった。試行錯誤を繰り返すうちに、仔ハムスターに人の細胞を植え付けると、一挙に大量のヒト細胞が得られるところまで辿り着いた。意気込んでハムスター飼育に取り掛かったが、ハムスターは見かけによらず凶暴で、わずかの光や音のショックで自分の子どもを食い殺す。ハムスターを大量飼育することが大きな壁となった。
 私たちは諦めなかった。約二十世代にわたるハムスターの交配を重ね、ようやく温和なハムスター種を生み出し、大量飼育への道が開けた。これにより世界初、林原独自のヒト細胞インビボ増殖法(ハムスター法)と呼ばれるインターフェロン量産技術が確立する。今は常時3万~5万匹のハムスターを飼育している。
 1988年、大塚製薬、持田製薬が薬としての「インターフェロン-α」を発売した。このインターフェロン生産で医薬品産業の一角に入ることになった。

追悼

氏は‘20年10月13日、78歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は’03年6月の61歳のときでした。’03年当時でも経済人がこの「履歴書」に登場するのは70~80歳代の人が多い中で、氏の61歳登場には少し驚きを感じたものでした。
当時は地方の時代と叫ばれ、大企業だけでなく地方の優良企業経営者に光をあてようとしていたのでした。実際よむと、父親の急死で慶応大学2年のときに社長に就任し、42年間で岡山・林原グループを製糸業やホテルを含め、18社・2法人(林原美術館など)で構成、従業員は約1500人に成長させていました。
もともと林原(株)は水飴製造でスタートした中核の林原本体は、主にデンプンから食品向けの糖化製品を生産、世界で独自の地位を得ていました。特に抗がん剤「インターフェロン」などの医薬品を手掛け、バイオ企業ともいわれた優良企業でした。印象に残る記述は次のとおりです。

*社会貢献(ラマ教経典資料の整理保存)・・ダライ・ラマ14世を招聘
1994年ごろ知人からダライ・ラマ14世を招聘する仕事の要請が来た。理由は、私がチベットと浅からぬ縁があったからだ。チベット仏教に関心があった私は、当時チベット経典を収集していた。59年に法王がインドに亡命、ポタラ宮殿に残された大部分は、ネパールの資産家の手を経て日本に入ってきていた。散逸を恐れた人の依頼で私どもがひきうけていたのだった。
 経典というが、仏教だけでなく医学、科学から歴史、民俗などチベットの知識を集大成した百科事典のようなものだ。経典の形は様々である。大きな短冊状の紙が数十枚で1巻、経典を刻印した純金の薄い延べ板十数枚で1巻というものもある。いまはこれが1500巻ほど集まっている。
 私はこれを翻訳、系統立てて整理したいと思っていた。将来、チベット史編纂の貴重な資料になるし、人類の知恵として役立つ形で使えると思っていた。法王にお目にかかって、こんな話もしたいとの気持ちが強くなり、計画の実現に動いた。

95年3月、法王は無事に日本に到着された。報道陣との対応にも、その見識と大きな心で見事な対応を見せられた。岡山では私どもの研究所も見学された。科学に対しても並々ならぬ知識と興味を持っておられた。公式の場を離れると、まるでガキ大将がそのまま大人になったような無邪気な一面を持っておられた。
 お目にかかって私は、「日々、人間が行う修業とは」と訊ねた。答えは簡単明瞭だった。「自分のしたいことが、自分の知らぬうちに人の役に立っている形になるまで修行しなさい」と。この言葉を私は紙に書いていただいている。
 チベット経典が流出したことには、「世界の人々にチベットを知ってもらえる良い機会になれば」とおっしゃった。この縁で、経典翻訳、整理のため優秀な僧侶を派遣していただくことになった。

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