掲載時肩書 | 参議院議長 |
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掲載期間 | 1958/11/14〜1958/12/04 |
出身地 | 熊本県 |
生年月日 | 1883/12/22 |
掲載回数 | 21 回 |
執筆時年齢 | 75 歳 |
最終学歴 | 中学校 |
学歴その他 | 城北学館 |
入社 | 精米所 |
配偶者 | 政治家 の娘 |
主な仕事 | 政友会、衆院議員、菊池鉄道社長、フランスと用船事業、 |
恩師・恩人 | |
人脈 | 野田卯太郎(商工大臣:岳父)、策略士、板野友蔵(弁)、江藤哲蔵、横井時雄(小楠長男)、池田成彬 |
備考 | 実家酒造業、松野頼三父 |
明治16年(1883年)12月22日 – 昭和37年(1962年)10月18日)は熊本生まれ。政治家。鶴平は党務に弱い吉田首相の私的政治顧問として、吉田内閣を支えることになる。政界の寝業師として、同年の抜き打ち解散を吉田首相に進言したり、吉田派と鳩山派の政権抗争では仲介役を務めた。衆議院議員、鉄道大臣、参議院議長などを歴任。権謀術数に長けたことから「松のズル平」とあだ名された。また、実業家として菊池電気軌道(現・熊本電気鉄道)の社長も務めた。妻・タキノは商工大臣等を務めた野田卯太郎の娘。自由民主党政調会長、総務会長などを務めた松野頼三は三男。民進党の衆議院議員松野頼久は孫、2016年ミス日本グランプリ受賞者の松野未佳は曾孫にあたる
1.政治の話は避ける
生きているうちに自分の生涯を語るというのは、ひどく面映ゆいことだが、引き受けたうえは、少なくとも生きている人に差しさわりのある話はしたくないと思う。そこで政治のことはなるべく避けて通るつもりでいる。
政治に一生を打ち込んできた私が政治を抜きに、一体どんな話をするつもりか、といぶかる人もあるかも知れないが、私には政治とも密接につながりのあった実業面での仕事がある。実業面で得た物心両面の数々の収穫が、ひいては政治家としての信念にまで及んでいるともいえる。いわば、車の両輪のようなものだ。その経済人としての自分を中心にして、話を進めてみたいと思う。
2.菊池電鉄騒動の仲介で社長に
大正13年(1924)、父が亡くなったので帰郷すると、ローカル線菊池電鉄が不祥事のため告訴係争中であった。電車が止まりかねないほどに騒ぎが大きくなって、他の交通機関もないことから、この線がストップすると沿線の被害は非常に大きい。私は、そんな最悪の事態にもつれ込まないうちに解決できないかと思って、父の仏事を済ませると収拾に一役買って出ることにした。
新旧の重役の内紛が原因だから、両方から白紙委任状をとり、斡旋に乗り出したのである。直ちに知事を訪ね仲裁役になってくれるように説得した。ところが、知事がいうには「熊本というところは、とにかくあらゆる問題に政党の争いが絡んでくるから手が付けられない。とても仲裁なんかおぼつかない」といって難色。私は「それなら、両党の幹部を委員に加え、その上で知事が委員長になればいい。両党の幹部には私からよく話をする。とにかくこの土地の問題だからあなたに乗り出してもらわないと困る」と懇望して、やっと知事の腰を持ち上げさせることができた。
そこで早速、両党の幹部に知事官舎の来てもらい、さらに商工会議所会頭、電灯会社の会長、そして新旧双方の弁護士も加えて仲裁団としたのである。これらで話し合いの結果、全ての調印を済ますことができた。斡旋は成功し、ケンカは丸く納まったけれど、社長になる人がいなくて結局私が口説き落とされた。
3.一人二役(鉄道大臣と会社重役の使い分け)
昭和15年(1940)、菊池電鉄は運賃引上げ申請をしたいが、政府は低物価政策でやかましいおりだからなかなか難しい。私はたまたま鉄道大臣在任中だったからあまり立ち入ったこともやれない。そこで鉄道監督局に同郷の渡辺事務官がいたので、彼を大臣室に呼び、運賃引上げの申請書を作らせた。私が口述して書き取らせたのである。自分で自分に宛てた奇妙な申請書に加えて、沿線17か村長連判の「輸送力増強に対する請願書」を大臣あてに出させることを考えた。
そうこうするうちにこの話が鈴木監督局長や次官の喜安健次郎君の耳に入ったらしく、ある日、喜安次官が慌てて大臣室へやって来ていわく「大臣は自分の会社の運賃値上げ案を作っているそうじゃないですか。低物価政策の政府方針はご存じでしょうね。もし、その申請が通れば他社も値上げをするでしょうし、大変な政治問題になりかねませんよ」と心配して言う。そんなことは十分計算に入れてのことだから、私は「心配せずに任せておけ」と言っておいた。しかし、米内内閣が半年で倒れたのでこの案も流れてしまった。
松野 鶴平 まつの つるへい | |
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生年月日 | 1883年12月22日 |
出生地 | 熊本県山鹿市(旧・城北村) |
没年月日 | 1962年10月18日(78歳没) |
出身校 | 城北学館中退[1] |
所属政党 | (立憲政友会→) (立憲政友会正統派→) (日本自由党→) (民主自由党→) (自由党→) 自由民主党 |
称号 | 従二位 勲一等旭日桐花大綬章 |
配偶者 | 妻・松野タキノ(野田卯太郎の子) |
親族 | 三男・松野頼三 孫・松野頼久 曾孫・松野未佳 |
第5-7代 参議院議長 | |
在任期間 | 1956年4月3日 - 1962年8月6日 |
天皇 | 昭和天皇 |
第19代 鉄道大臣 | |
内閣 | 米内内閣 |
在任期間 | 1940年1月16日 - 1940年7月22日 |
選挙区 | 熊本県選挙区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1952年10月20日 - 1962年10月18日 |
選挙区 | (熊本県第4区→) 熊本県第1区 |
当選回数 | 7回 |
在任期間 | 1920年5月11日 - 1924年1月31日 1928年2月21日 - 1945年12月18日 |
その他の職歴 | |
初代 自由民主党参議院議員会長 (総裁:鳩山一郎) (1955年 - 1956年) |
松野 鶴平(まつの つるへい、1883年〈明治16年〉12月22日 - 1962年〈昭和37年〉10月18日)は、日本の政治家。衆議院議員、鉄道大臣、参議院議長などを歴任。権謀術数に長けたことから「松のズル平」とあだ名された。また、実業家として菊池電気軌道(現・熊本電気鉄道)の社長も務めた。熊本県平民[2]。
妻・タキノは商工大臣等を務めた野田卯太郎の娘。自由民主党政調会長、総務会長などを務めた松野頼三は三男。民進党の衆議院議員松野頼久は孫、2016年ミス日本グランプリ受賞者の松野未佳は曾孫にあたる。