掲載時肩書 | 漆芸家・芸術院会員 |
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掲載期間 | 1980/02/01〜1980/03/02 |
出身地 | 石川県 |
生年月日 | 1896/04/20 |
掲載回数 | 31 回 |
執筆時年齢 | 84 歳 |
最終学歴 | 東京藝術大学 |
学歴その他 | 上野美 術予科 |
入社 | パイロット 万年筆 |
配偶者 | 医者娘 |
主な仕事 | 天心先生指導法集め、卒業制作100点満点、楽浪の発掘品修理、国会議員に漆椅子、日光2社1寺修復、エジプト図面、正倉院、当麻寺国宝 |
恩師・恩人 | 暁島坊師、 正木学長、益田孝 |
人脈 | 灘尾弘吉、六角紫水、大村西涯、岩崎男爵、ダンヒル3世、コティ、ナセル副首相、細川護立 |
備考 | 奈良大麻寺で国宝発見 |
1896年(明治29年)4月20日 – 1986年(昭和61年)6月15日)は石川県生まれ。日本の蒔絵師。伝統工芸の復興に力を尽くす一方で並木製作所の蒔絵万年筆(ダンヒル・ナミキ)の製作指導といった新しい蒔絵の模索も行っている。漆工芸史に名を残す名匠として、「漆聖」とも称えられた。
1.金沢の文化
北陸の古都金沢は、いうまでもなく加賀前田藩百二十万石の城下町である。私はこの町に生まれた。藩政期三百年の間にこの北国の都で育まれた“百万石文化”は、華麗を極めた。謡曲、能、狂言、俳句、茶の湯、香道、生け花、書画骨董など文化万般に及んだ。
徳川の世になって外様大名は、幕府から殊更に謀反の疑いを抱かれることを恐れた。そこで加賀の殿様は、知行から上がる収益を、軍備は避けて美術、芸能、文芸を奨励し、もっぱらこの方面に金子をつぎ込んだ。ここに金沢が当時の美術工芸の一大中心地となる一因があった。
具体的には、加賀蒔絵をはじめ輪島塗、加賀友禅、加賀羽二重、九谷焼、加賀象嵌、加賀宝生(能楽・宝生流)、俳句といった独特の加賀文化の花が咲いたのであった。
2.天心先生の直弟子に先生の指導法を訊ねる
美術学校の学生時代、岡倉天心先生は病気療養中で直接お目にかかることができなかった。そこで私は、天心先生に直接教えを受けられた日本美術院の画家の人たちに話を聞いてみようと決心した。学生ではあったが、天心先生のことを知りたい一心で、横山大観、下村観山、木村武山ら諸大家の門をせっせとたたいて回ったものである。横山大観などは、天心という名を口にする時はことさら恭しく、辞を低くするといった態で「おれたちはなぁ、君、天心先生からホネ(骨)を教わったんだよ」と崇敬の念で言われた。
その後も諸大家にお会いしたが、平櫛田中、小林古径、安田靫彦、前田青邨などの皆さんが口をそろえて言われたのは、「先生の批評はいちいち具体的で、建設的」であり、「どこどこが悪い、といった欠点の指摘はめったに言わぬ方だった」ということであった。
3.益田孝鈍翁の唐櫃(からびつ)が重要文化財に
昭和の初め(1927)ごろ、ある日私は、関西の出張かえりに、小田原に途中下車して益田さんの別宅に立ち寄った。益田さんはすでに70歳を超えており、茶道三昧の悠々自適人生を送っておられたが、数奇者としても、古美術品の大コレクターとしてもその名は天下にとどろいていた。
挨拶すると鈍翁は「チョッと上がれ」という。示されたのが床の間に飾られた唐櫃だった。唐櫃とは6本の足のついた中国風の櫃のことで、昔の人はこれに経典や宝物などの貴重な品をしまったものである。「ここをちょっと見てくれ。櫃の表にどうも銘文があったらしいが、めちゃめちゃに壊れて読めない。君何とかしてこれが読めないものだろうか」との話である。
数日後、あの唐櫃を是非見ようと泊りがけで小田原へ出かけた。見れば見るほど立派な作である。蓋の表には鷺が数羽飛び、松が描かれ、周囲には波や太陽の図柄など、すべて研出し蒔絵の見事なものである。正面に問題の銘文の痕跡があった。その晩唐櫃を見ながら考えた。すると技術屋として一案が浮かぶ。
そこで家に帰り、唐櫃の漆下地と同質の塗見本の下地を作り、その上から銀の液を塗って一旦乾かし、それをさらにタワシで水洗いし、書いた文字をこすり落としてから、その上に様々な調合の薬品を塗り、しみ込んだ銀錆をおびき出そうと試みた。この作業の試験を繰り返すことは3年に及んだが、ついに何とか錆を浮かび上がさせることに成功した。
ところが鈍翁はこの成功を信じてくれない。騙して銘文を作ったと思われたのだろう。この試行錯誤の仔細を美校の正木学長が説明してくれたため、ようやく鈍翁も納得され、私に詫びてこられた。この問題の唐櫃は、戦後になって重要文化財の指定を受け、今は東京国立博物館に所蔵されている。