掲載時肩書 | 東洋工業社長 |
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掲載期間 | 1965/10/15〜1965/11/08 |
出身地 | 大阪府天満橋 |
生年月日 | 1895/11/24 |
掲載回数 | 25 回 |
執筆時年齢 | 70 歳 |
最終学歴 | 工業高校 |
学歴その他 | |
入社 | 陸軍・宇治 火薬製造所 |
配偶者 | 看護婦 |
主な仕事 | 松田製作所(父創立)、日窒コンツエルン傘下、東洋コルク工業->東洋工業、広島カープ、NHK委員 |
恩師・恩人 | 野口遵(日本窒素工業) |
人脈 | 谷川昇、鈴川貫一、伊藤信之、堀田庄三、池田勇人 |
備考 | 左足切断(結核性関節炎) |
1895年11月24日 – 1970年11月15日)、大阪府出身の実業家。 東洋工業(現マツダ)3代目社長。実父は東洋工業創始者の松田重次郎、息子にマツダ4代目社長の松田耕平。自身から孫の松田元と3代続けて広島東洋カープオーナーである。恒次は世界の誰もが成し遂げられなかったロータリーエンジンの開発・量産化に、山本健一とともに心血を注ぎ込みこんだ。1965年、乗用車輸入自由化に向け、通商産業省主導による自動車業界再編が噂されていた。後発メーカーである東洋工業はその波に飲み込まれ、統合・合併の危機が迫っていた。「技術は永遠に革新である」をモットーとする恒次は事態打開を目指し、「独自技術を保つためにロータリーエンジンをやる。通産行政に抵抗する」とぶち上げた。そして、ロータリーエンジンの開発に成功し、コスモスポーツ発売にこぎつけた。
1.恩人・野口遵氏との関係
オートバイ競争に初出場して優勝した前後から、翌年秋、DA型と呼ばれるオート三輪車を市販すると、社業は上昇し、昭和8年(1933)には実に17期目に年6分の復配ができるまでになった。この時期に、東洋工業は日本窒素肥料のいわゆる傍系会社となり、その後の発展、伸長を約束されるようになった。こうした関係ができるまでには、日窒社長だった野口遵さんと父との間にも、いろんなことがあった。大正末期の、工場焼失の際は、「工場が焼けては担保に取っていた株も無価値となった。ついては代わりに家を抵当に入れて欲しい」とのドライな申入れに、父が快く応じたことで、野口さんは一層父に好意を持ってくれた。
そして父が機械工場の並置を決め、いざ実行のとき、銀行との間に立って融資の便を図ってもくれた。それからも野口さんは、東洋工業の大株主となり、鑿岩機分野への進出を強く進められた。そればかりかオート三輪車の製作に当たっては、三菱商事に売らせようと、同社の常務で親友でもあった加藤恭平さんに掛け合い、一も二もなく引き受けさせたのだった。こうして三菱商事との関係は12年(1937)12月まで、そして日窒との関係は実に19年(1944)1月、野口さんが亡くなるまで続いたのである。
2.原爆の日(1945年8月6日)
この日は、一日工場を休んで志和口(高田郡白木町)の家にいた。たまたま前日の5日に、トラックの都合がついたので、かねて借りることにしていた志和口の農家に、身の回りの道具を持って疎開したばかりで荷物の整理や引っ越し疲れなどで、ズボラしたのである。この朝は、あの時刻に、何かピカッと光ったかと思ったら、あとからダダァーンと大きな音がし、真っ黒な煙がものすごく立ち上がった。
これは一大事と駅へ駆け付けると、夜勤番の社員が大勢やはり詰めかけていて、私が行くなら同行しようという。どこまでいけるか不明の汽車に乗ったが、結局は途中の矢賀駅止まりで、あとはみな歩き出した。途中、知らせできた迎えの車に乗り、工場についたのは夕方4時ごろだった。工場には、広島市が壊滅したという情報が入っていたため、広島市に住む従業員はみな帰った後で、幹部もおおむねいなかった。わずかに残留していたのは、夜勤者と防空要員、それに寄宿舎の寮生だけであった。私はヘッドとして指揮を執る一方、工場の寄宿舎や食堂に収容した負傷市民の治療にもあたった。
こうして翌7日になると、収容していた負傷者の中から14人の死者が出た。私はこの人たちの遺体の火葬もした。従業員で家を失った人は相当いた。私もまた、たった一人の弟宗彌を失った。
3.ロータリーエンジンと堀田庄三氏の配慮
昭和35年(1960)、春の軽乗用車クーペの発表に続き、秋にはロータリーエンジンについての技術提携の話をまとめるため、ドイツに飛んだ。現地シュタットガルト市のNSU社と交渉したが、ハース大使の手配とあって万事スムーズに運び、無事ロータリーエンジンの技術提携の仮調印を終えることができた。
この裏には住友銀行の堀田庄三氏に大変お世話になった。私が堀田さんにドイツに行くことを話したところ、「それならアデナウアー宛の、吉田さん(元首相)の添書を持って行きなさい」とのこと。しかも「君は池田さん(前首相)と親しいんだから、僕が吉田さんの添書をもらってくるよりも、池田さんを通してもらった方が良かろう」と言われた。そこで私は池田さんに「吉田さんの添書をいただきたい」と電話した。と彼氏一流の調子で「技術提携に政治家を使うな」という返事で、私が重ねて「それでは日本人の紹介が全くなくて寂しい」というと、「それでは武内(当時駐独大使)を紹介するよ」と言ってくれた。
ところで、さあ出発という時に、堀田さんはちゃんと吉田さんの添書を持ってきてくれた。私が「池田さんに頼んだら、こう言われた」と話したので、私の出発の前々日に、ご自身で吉田さんのところへ行かれたとのことで、そればかりか、日独協会会長の高橋龍太郎さんの添書まで付けてくださった。私は堀田さんの行き届いた親切にただ感謝の他はなかった。