掲載時肩書 | 前文相 |
---|---|
掲載期間 | 1956/04/06〜1956/04/13 |
出身地 | 富山県 |
生年月日 | 1883/01/24 |
掲載回数 | 8 回 |
執筆時年齢 | 73 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | 早大予 |
入社 | 報知新聞 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 名古屋支店長、民政党、浜口雄幸・若槻礼次郎、町田忠治総裁に仕える |
恩師・恩人 | 大隈重信 |
人脈 | 河合良成・正力松太郎(高岡中)永井柳太郎、中野正剛、斎藤隆夫、石橋湛山、大麻忠男 |
備考 | 家:薬屋(熊の胆) |
1883年〈明治16年〉1月24日 – 1971年〈昭和46年〉8月21日)は富山県生まれ。実業家、政治家。5回にわたり中国を訪問。1970年には、周恩来首相から日中貿易継続を許される企業の条件を示された。そこで、台湾に多くの投資を行い、援助している企業との取引は拒否すると言い渡される。そうして、日中国交正常化の地固めをし、社民党寄りの評論家佐高信から高く評価されている。幣原喜重郎内閣では農相として第1次・第2次農地改革に携わる。中曽根康弘が「最も尊敬して師事した政治家」だった。
1.大隈重信侯(弁論、他者との比較)
当時名だたる雄弁家がおったが、同じ雄弁でも永井柳太郎、中野正剛、斎藤隆夫などと大隈さんの雄弁を比較してみると非常な差がある。
永井君の演説は原稿に非常に注意する。前もって推敲に推敲を重ねて磨き上げる。私は永井君と同行して東北地方を回ったことがあるが、彼は東京で原稿を作ってまず福島でやる。これは試験的なもので、これが受けるかどうかを見るわけである。そしてそれを直して今度は仙台でやって自信があれば、盛岡、青森へいき一字一句違わずに演説をやる。だから永井君の演説は大衆を沸かすけれど、一度聞けば同じだ。
中野正剛君などもやはり原稿を作ってやるので当意即妙な演説はあまり得意ではなかったようだ。斎藤隆夫も後世に残るような有名な演説を原稿見ずにやったが、それとてすっかり原稿で用意して前の晩に暗記していくのだということだった。
大隈さんの演説は、まるっきり野放図だった。一緒に旅をして驚いたのだが、名古屋で医者の会に突然出てくれと言われ、原稿なしで始める。明治維新以来の医療制度の変遷について、日本は維新の際に英国式の医術をとるか、ドイツ式をとるかが非常な問題となり、まずドイツ式をとり、後に英国式の医術をとるようになった話を、諄々と説き聞かせた。また、京都では比叡山に登って、全山の坊主を集めて法然上人の一代記を語って聞かせたりした。大隈さんは聴く人に合わせた当意即妙の講演だった。
2.大隈重信侯の奥様の存在
また大隈さんの旅行には必ず奥さんが付いて行ったのも有名な話である。それは奥さんがいないと一人前にいかない人だったからだ。大隈さんは“いや”ということを言わない人で、地方へ行くと有力者が訪ねて来て「明日は私の所へ来てください。同志を集めておきますから一緒にお食事を」と言われると「よし行こう」と引き受ける。するとまた次の人が来て前と同じ時刻に昼飯をどうぞと言われれば“よかろう”と引き受ける。昼飯を5度も7度でもみんな引き受ける。相手の方では本人が言うのだから間違いあるまいと思っているが、同じ時刻に昼飯を5回も7回も食べるわけにはいかない。それを整理するのが奥さんで、ほかの連中にはできない。だから奥さんがいつもついて行くということになったのである。
3.浜口雄幸総裁
私が初めて民政党で仕えたのは浜口さんである。非常に人望のあった人だ。浜口内閣のころ蒋介石が北京に攻め上がったが、そのとき済南で日本人を虐殺したといういわゆる済南事件が起こった。そこで仲間たちと一緒に真相をただしに行った。そして、いろいろ情報を携えて我々は帰国した。そしてこの情報を仲間と一緒に浜口総裁のところに報告に行った。浜口さんはじっと聞きながら要点は筆記しておられたようだった。そして「明日もう一度来てくれ」と言われたので、翌日行くと、今度は巻紙に質問の要点をずっと書いてあり「その点はどうだ」と聞いてきた。そして最後に「よくわかった。ついてはこれは国家の非常な大事だから他へ話しては困る。この善後措置は私に任せて、君らは何もしないでくれ」というのだった。
私が偉いと思ったのは、聞き流す程度のことぐらいは誰でもやるけれども、もう一遍来いと言って、自分で質問の要点を作るということはなかなかできないことだ。特に近来その感が深い。
| |
生年月日 | 1883年1月24日 |
出生地 | 日本 富山県南砺市 |
没年月日 | 1971年8月21日(88歳没) |
出身校 | 早稲田大学政治経済学科 |
前職 | 報知新聞記者 |
所属政党 | (立憲民政党→) (翼賛政治会→) (大日本政治会→) (日本進歩党→) (無所属→) (新政クラブ→) (改進党→) (日本民主党→) 自由民主党 |
称号 | 従二位 勲一等旭日桐花大綬章 |
第72代 文部大臣 | |
内閣 | 第2次鳩山内閣 |
在任期間 | 1955年3月18日 - 1955年11月21日 |
第2代 農林大臣 | |
内閣 | 幣原内閣 |
在任期間 | 1945年10月9日 - 1946年1月13日 |
第12代 厚生大臣 | |
内閣 | 東久邇宮内閣 |
在任期間 | 1945年8月17日 - 1945年10月9日 |
選挙区 | 富山県第2区 |
当選回数 | 7回 |
在任期間 | 1952年10月2日 - 1969年12月2日 |
選挙区 | 富山県第2区 |
当選回数 | 6回 |
在任期間 | 1928年2月21日 - 1945年12月18日 |
松村 謙三(まつむら けんぞう、1883年〈明治16年〉1月24日 - 1971年〈昭和46年〉8月21日)は、日本の政治家。