掲載時肩書 | 歌舞伎俳優 |
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掲載期間 | 2011/12/01〜2011/12/31 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1942/08/19 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 69 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | |
入社 | 3歳初舞台 |
配偶者 | 香川京子 縁戚:医師娘 |
主な仕事 | 松竹→東宝→松竹、歌舞伎、演劇、映画、ミュージカル、ブロードウェー、シェークスピア、俳句、若手勉強会、ラ・マンチャ(1149)、 |
恩師・恩人 | バワーズ、菊田一夫 |
人脈 | 佐々木功(小友)、寺山修司、蜷川幸雄、永山武臣、三谷幸喜 |
備考 | 祖父:9世団十郎門弟(七世幸四郎)、母・芸事全般、弟:中村吉右衛門 |
1942年8月19日 – )は東京生まれ。日本の歌舞伎役者、舞踊家。歌舞伎ではお家の高麗屋の芸を継承し、外祖父の播磨屋の重厚な演目も受け継ぐ一方で、現代劇やミュージカルでの活躍が目覚しく、日本国外ではニューヨーク・ブロードウェイで『ラ・マンチャの男』の主役を、ロンドン・ウエストエンドで『王様と私』の主役をそれぞれ英語でこなしている。また演劇企画集団 「シアター・ナインス」や、歌舞伎企画集団 「梨苑座」を発足させるなど、舞台芸能の創造者としての存在も大きく、九代琴松(くだい きんしょう)の名で舞台演出も行っている。さらにテレビでは大河ドラマや連続ドラマなどで主演することも多く、いわゆる万能型の俳優である。趣味はギター演奏、絵画、競馬など幅広い。
1.母・正子の祖父への約束
初代吉右衛門の一人娘が、母の正子である。少女のころから「将来、この人(父)のお嫁さんになるんだ」と心に決めていたという。二人が結婚するのが1940年(昭和15)だが、反対はあった。中でも播磨屋の祖父が、跡継ぎがなくなると首を縦に振らなかった。母は言った。「男の子を二人産みます。そして下の子を播磨屋の養子にします。これで許してください」と。そうして実際に約束を果たした。
女性だから歌舞伎役者にはなれなかったが、歌舞伎役者に必要な教育は十分に施されていた。踊り、三味線、唄、浄瑠璃など習い事をはじめ、俳句、弓まで習った。子供のころから祖父の歌舞伎の舞台をたくさん見てきて、歌舞伎の芸を熟知している母は、私が初役を勤める時、手取り足取り教えてくれた。邦楽全般、諸芸に本格的に通じているだけに自分の子供にも同じことを要求した。芸のできない役者は役者じゃない、というような母だった。つまり芸事の天才が主婦になってしまった。それが母藤間正子であった。
2.私の誕生8月19日(両親の育児日記を紹介する)
父:僕は君の生まれる日、築地の家で昼食をすませたところに、病院から「男の子ですよ」とただ一言の報だ、早速神様へ全部燈火をあげた。二階の机の前に僕の生母の写真を出した。ぽろぽろ涙が出た(若い父はこんな感傷的なところもあった)。病院へ行くまで母と君の健全なことのみであった。着いて母子の顔を見てほっとして君の母に「ありがとう」といったよ。父
母:看護婦さんに、大きな赤ちゃんですヨと言われた時、今までのつらい死ぬ程の苦しみがいっぺんに飛んでしまいました。しばらくしてあなたは真っ赤な顔をしてお母様の横におねんねしたのヨ。お父様がいらっしゃった時、そばに人が居なかったら弱虫の母様は泣いてしまったでせう。母様は幸せ者ヨ。世界中の幸福者ヨ。またあなたも幸せネ。コンナいい父様を持って。 母
3.ラ・マンチャの男の思い出
この素晴らしさを見つけてくれたのは父だった。父が文化団体の使節として、米国の俳優に「勧進帳」の指導をすることになり、母と一緒に渡米した。その時、ブロードウエーの劇場で偶然見たのが「ラ・マンチャの男」だった。父はとても感動して、すぐに東京に電話し、このミュージカルを是非、私にやらせたいと交渉。
1969年4月、東宝での上演が決まり帝国劇場で開演すると、好評を得て読売演劇大賞を受賞できた。この実績が評価されたのか、ブロードウエーのマーチンベック劇場で「国際ドン・キホーテ・フェスティバル」が開かれるが、「出演を希望するか」との問い合わせがあった。私は即座に「受けます」と応えた。
東宝内部では受けるべきか意見が分かれた。何しろ英語で歌いセリフを言うので、私の英語力への心配と、失敗すれば東宝も恥をかくというわけだ。我が家でも家族会議が開かれた。その時、父が「いい人を知っている」と言った。以前、米国で「勧進帳」を教えた時、弁慶役を演じたドン・ポムスという俳優が来ているので、相談してみようとなった。ボムスさんは全面協力を約束し、「ぜひやれ」と激励してくれた。この言葉でブロードウエー招待に応じる決心がついたのだった。