掲載時肩書 | 北海道拓殖銀行会長 |
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掲載期間 | 1983/02/01〜1983/02/28 |
出身地 | 高知県 |
生年月日 | 1910/01/29 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 73 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 高知高 |
入社 | 大蔵省 |
配偶者 | 高知先輩娘 |
主な仕事 | 英国、北京興亜院、日本輸出入銀、拓殖銀行、商工指導センター、北海道自然保護協会 |
恩師・恩人 | 広瀬経一(前頭取) |
人脈 | 森永貞一郎(同期入省)愛知揆一(上司)、大平正芳、田中文雄(ゴルフ)、石野信一、五味彰、町村金吾 |
備考 | 札幌オリンピック |
明治43年(1910)1月19日~平成3年〈1991〉5月23日)は高知県生まれ。実業家。大蔵省に入省。のち、北海道拓殖銀行会長を務め、北海道の地域振興に尽力した。
1.GHQ命令の円軍票流通を阻止
昭和20年〈1945〉2月、外貨金庫が設立され、総務課長の私は、久保文蔵局長らと共に、事業を開始した。8月15日の終戦後すぐ、私がかかわった出来事は、米軍が日本占領後に使用しようと用意していた円表示軍票の流通を止めることだった。もし、円軍票を使用されれば、敗戦で混乱している通貨金融が、壊滅的な影響をこうむることは必至で、何としても阻止しなければならない。津島寿一大蔵大臣、山際正道次官、久保外資局長などの首脳部、いや内閣全体がその決意だった。
米軍が円軍票を用意していることは、予想もしており、未確認ながら情報も掴んでいた。8月30日、マッカーサー司令官が厚木に降り、直ちに横浜に入った。31日夜、久保外資局長は鈴木久万公使らと共に、軍政局長クリスト准将を訪ね、軍票の使用取りやめを申し入れた。しかし、「申し入れは聞き置く」との反応だった。
9月2日、日本が降伏文書に調印した日の午後、クリスト准将から3種類の布告文を示され、翌3日告示すると言われた。その3号は、B号円軍票を日本の通貨とするという内容であった。布告は最高司令官が直接、日本国民に出すことになっていた。これでは内閣は保てない。岡崎勝男終戦連絡事務局長がマーシャル少将に会い、布告中止の同意をやっと取り付けたのは、3日午前零時過ぎと言われる。午前5時ごろ、岡崎局長は重光葵外相に報告、外相は局長と共に横浜に行き、午前10時マッカーサー司令官と会見、布告を日本政府に対する命令に変更してもらった。そして翌4日、重光外相はサザランド参謀長を、久保局長はクリスト准将を訪ね、占領軍に必要な資金は、日銀券を提供すると申し出、認められた。
2.日本債券信用銀行の設立背景
昭和30年(1955)8月、為替局長3年を経て、銀行局長になった。この時代に日本債券信用銀行の設立に関与した。旧朝鮮銀行の関係者から、残余財産を基に新しい銀行を設立したいとの要望があった。自民党の支持があり、大蔵省内では山手政務、平田事務の両次官は賛成、銀行課の事務方は反対だった。
当時の一万田蔵相は手順に関しての意見はあったが賛成、市中銀行は債権引き受けの負担を考えてか、反対に傾いている具合に、賛否入り組んで複雑な様相を呈していた。難航の末、中小企業向けの長期資金供給機関という性格付けで、認可の方針がようやく決まり、昭和31年末、内認可の手続きをとった。
3.北海道拓殖銀行で
昭和34年(1959)11月末、広瀬経一頭取にお会いし、私は拓殖銀行の副頭取として入行した。同37年3月、広瀬頭取から職を譲られた。しかし、銀行外の外向きのことは頭取、行内の日常業務は私という役割分担が大体あった。私の頭取就任後、広瀬さんが会長としてとどまり、引き続き外部の仕事は引き受けて下さったし、指導もしていただけたのは、誠に幸であった。
頭取就任後、北海道側ばかりでなく、本州側にも店を設けたいと思った。北海道と最も物資の交流が多く、資金の流れが多いのは、南関東・東京地区。従って、店舗増設はこの方面に集中せざるを得なかった。一面、北海道の産業経済は石炭鉱業にみるように変動が多く、盛衰の激しい地区を生じて、これに即応して店舗を配置していかなければならない。言うまでもなく、店舗の設立、廃止には大蔵省の認可が必要だった。
頭取就任時の店舗数は、道内95,本州18.退任時はそれぞれ103、58である。この数字を眺めると、一つには本拠地の北海道が手薄にならざるを得なかったことが、長い目で見てどんな評価を受けるかと思う。
国際化に対応するため、45年〈1970〉6月、ニューヨークに駐在員事務所を開いたのを手始めに、その後、ロンドン、香港、ロサンゼルス、シアトル、シカゴなど漸次事務所が増え、支店への昇格も認められるに至った。頭取退任時、海外支店、現地法人、駐在事務所を合わせて8か所に過ぎなかったが、今やこの数は16になっている。