掲載時肩書 | 新劇女優 |
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掲載期間 | 1966/05/04〜1966/05/31 |
出身地 | 千葉県 |
生年月日 | 1890/09/30 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 76 歳 |
最終学歴 | 高等学校 |
学歴その他 | 華族女 学校 |
入社 | 18歳結婚 |
配偶者 | 華族 |
主な仕事 | ロシア、フランス留学、バレエ、オペラ、文学、一時帰国 、中ロシア革命、36歳俳優座、「サクラの園」300回、「どん底」文学座 |
恩師・恩人 | 青山杉作、 久保田万太郎 |
人脈 | 小山内薫(主人友)、滝沢修、丸山定夫 、千田是也 |
備考 | 佐倉藩家老職 |
1890年9月30日 – 1980年5月8日 千葉県生まれ。司法官で後に貴族院議員を務めた渡辺暢の次女で、10人兄妹の3番目。生家は代々佐倉藩の城代家老を務めていた。1899年(明治32年)、母方の伯父である法学者の寺尾亨の養女となり、東京市麹町区富士見町に転居する。 富士見高等小学校高等科2年を終えて華族女学校に入学し、1907年(明治40年)の卒業後は仏英和女学校(現・白百合学園高等学校)でフランス語を学ぶ。18歳で14歳年上と結婚。夫はモスクワ支店長として赴任。フランスへ留学。36歳で女優。築地小劇場(プロレタリア演劇運動・左翼傾向)を経て俳優座の結成に参加した新劇出身者。舞台では翻訳劇の貴婦人役を多く演じ、『桜の園』のラネーフスカヤ夫人役が当たり役となった。テレビドラマや映画では老婦人役を多く演じ、特に『東京物語』の老母役で知られる。
1.華族女学校に入学
この女学校の生徒は、いつも丸髷に結った奥女中がお供していました。奥女中は、たとえそれが若い人でも、髪は丸髷に限られていたのです。皇族のお姫様に路上でお会いしますと、私たちはご挨拶をした後、おあとについて学校へまいりました。そして、校門を入ればもう同じ学友、お友達付き合いということになっておりました。お供の人たちのためには、たまりの部屋が用意してあって、そこでその人たちは縫物をしたり、お昼になれば持参のお弁当を食べたりしてお姫様がたのお帰りを待つのでした。
2.人生の転機
築地小劇場の創立者のお一人、小山内薫先生に初めてお目にかかったのは大正元年でした。先生は、モスクワ芸術座見学のためにおいでになり、それからドイツ、イギリス、フランスとお回りになって、シーズン・オフに再びモスクワに戻られしばらく滞在なさいましたが、このときは私の家でお宿をいたしました。先生と私の主人とは、以前に日本でお知り合いになっていたのでした。
大正12年9月1日の関東大震災で家庭環境も変わりました。今まで主人に頼り切るばかりの生活から自立する決心をしました。そんなとき小山内先生にお会いしました。先生は、まさか私を女優志願者とはお考えにならないで、おそらく気を許されたのでしょう。こんなことをお話になりました。
「築地小劇場は、女優が居ないので困っているのです。私たちは、別にくろうとの人は必要としません、しろうとでいいんです。ことに困っているのは、中年の人がいないことです」。このとき私は数え年36歳でしたので、私はたちまち本心を開いて、女優志願を先生に熱心にお願いいたしました。
3.『東京物語』(とうきょうものがたり)
1953年に公開された。監督は小津安二郎、主演は笠智衆と原節子で東山は笠智衆との夫婦役で好演して、この映画は高い評価を受けた。しかし、「私の履歴書」にはこの記述はなかった。
「桜の園」といえば東山千栄子。東山千栄子といえば「桜の園」と評価された。その理由を探してみた。(当時、ロシア貴族夫人を演じることができるのは彼女だけだった!)
東山千栄子・・・「私の履歴書」 昭和41年(1966)5月4日~31日 登場
1.1890年(明治23年)9月30日、千葉県千葉市に生まれる。司法官で後に貴族院議員を務めた渡辺暢の次女。生家は代々佐倉藩の城代家老を務めていた。
2.富士見高等小学校高等科2年を終えて華族女学校(女子学習院)に入学し、1907年(明治40年)の卒業後は仏英和女学校(現・白百合学園高等学校)でフランス語を学ぶ。
3.1909年(明治42年)、「外交官夫人になってほしい」と言う養父母の希望で、輸入業者のモスクワ支店長だった河野通久郎(32歳)と18歳で結婚し、河野の任地のモスクワへ。滞在中にリヨンへ語学留学したが、買い物で滞在費を浪費のため、モスクワへ連れ戻された。
4.夫に連れられてバレエやオペラ、オペレッタを観劇したが、モスクワ芸術座の舞台『桜の園』を見るうち、その魅力の虜となった。演出のコンスタンチン・スタニスラフスキー(モスクワ芸術座の創立者の一人)が、兄ガーエフ役を演じ、作者の未亡人オリガ・クニッペルが女主人公のラネフスカヤ夫人を演じていたからだった。夫と一緒にモスクワ芸術座の舞台は何度も見ることとなった。
5.小山内薫(築地小劇場・創立者の一人)が、大正元年(1912)にモスクワ芸術座見学に来た時、彼女邸に滞在しスタニスラフスキー演出を克明にノートに執っていたという。
6.大正6年(1917)に帰国中にロシア革命が起こり、彼女のモスクワ生活は8年で終わった。夫はすぐに海外勤務に就いたが、ロシアの政情不安から彼女は一人日本に留まった。
7.大正13年(1924)6月、築地小劇場が創立された。小山内薫が「この劇場には女優がいないで困っている」と聞き、1925年2月,35歳で女優を志し築地小劇場の研究生となる。
8.しかし、夫をはじめ親戚一同から大反対を受ける。最終的には、新劇に理解のある夫から「教育者になったつもり」、「お金をもらわない」の2条件で、女優になることを認められた。
9.「桜の園」の演出は小山内薫だった。彼は東山が「帝政ロシアで暮らしたことがあり、年輩としてもラネフスカヤ夫人と同じ程度。かって本場の芸術座の舞台を何度も見ている」という理由で抜擢したようだ。
10.この好演が東山の当たり役として1963年(昭和38年)の俳優座公演までに約310回も演じることとなった。1952年(昭和27年)には『桜の園』の演技で芸術選奨文部大臣賞を受賞した。
11.1980年(昭和55年)5月8日、静岡県御殿場市の自宅で老衰のため89歳で没した。葬儀は劇団俳優座・日本新劇俳優協会合同葬という形で行われた。
ひがしやま ちえこ 東山 千栄子 | |
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1952年撮影 | |
本名 | 河野 せん(旧姓:渡辺・寺尾) |
生年月日 | 1890年9月30日 |
没年月日 | 1980年5月8日(89歳没) |
出生地 | 日本・千葉県千葉市 |
死没地 | 日本・静岡県御殿場市 |
職業 | 女優 |
ジャンル | 映画、テレビドラマ、舞台 |
活動期間 | 1925年 - 1980年 |
配偶者 | 河野通久郎 |
著名な家族 | 渡辺暢(父) 中江百合(妹) |
主な作品 | |
映画 『東京物語』(1953年) 舞台 『桜の園』 |
東山 千栄子(ひがしやま ちえこ、旧字体:千榮子、1890年9月30日 - 1980年5月8日)は、日本の女優。日本新劇俳優協会初代会長。本名:河野 せん(旧姓:渡辺・寺尾)。
築地小劇場を経て俳優座の結成に参加した新劇出身者である。舞台では翻訳劇の貴婦人役を多く演じ、『桜の園』のラネーフスカヤ夫人役が当たり役となった。テレビドラマや映画では老婦人役を多く演じ、特に『東京物語』の老母役で知られる。主な栄典・称号・褒章に紫綬褒章、文化功労者。著書に自伝『新劇女優』などがある。
妹に料理研究家の中江百合、弟にベース奏者の渡辺良[1]がいる。