掲載時肩書 | 村田製作所会長 |
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掲載期間 | 1993/07/01〜1993/07/31 |
出身地 | 京都府 |
生年月日 | 1921/03/25 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 商業高校 |
学歴その他 | 京都市立第一商業 |
入社 | 村田製陶所(父) |
配偶者 | 父・親類娘 |
主な仕事 | 生長の家、日本陶磁器、村田製作所、京大と産学協同、エレクトロ・セラミック、補助金、海外視察、株式上場、アジア進出、村田学術振興財団 |
恩師・恩人 | 田中哲郎 教授、田中政雄、ドクター・コステロ |
人脈 | 磯松嶺造、千田信惇、岡崎清、佐份利治、藤島啓、脇野喜久男、中村武、平松守彦 |
備考 | 病院デパート、父の厳命「競合しない独自品を作れ」 |
1921年(大正10年)3月25日 – 2006年(平成18年)2月3日)京都生まれ。実業家である。村田製作所創業者・名誉会長・元会長・社長。父親が陶器店を営んでいた。1950年(昭和25年)、法人化の後、京都大学との「産学協同」で酸化チタンコンデンサの開発に成功。セラミック半導体や通信機用フィルタを次々に開発し、通信機やテレビ向けなどの電子部品事業を拡大、チタンコンデンサの主力メーカーとして一大シェアを掌握した。1960年(昭和35年)代にはアメリカのGMより受注するなどいち早く海外に進出し、1973年(昭和48年)には日本の電子部品メーカーで初めてアメリカ合衆国内に工場を設立。京都を代表する大企業の創業者として活躍した。
1.村田セラミックスは「不思議な石ころ」です
一般にセラミックスといえば焼き物―陶磁器を思い浮かべるのが普通であろう。しかし当社が作っているエレクトロ・セラミックスは、陶土の焼き物ではなく、精製された酸化チタンや炭酸バリュウムなどの化学原料を焼き固めたものである。
この種のセラミックスは、電気を蓄えたり、電圧をかけると伸縮したり、その逆に伸縮させると電気を発したり等々、実に多様で不思議な特性を持っている。私はこのセラミックスに親しみを込めて「不思議な石ころ」と名付け、これにとりつかれて半生を過ごしてきた。戦前はまだ海のものとも山のものともわからないセラミックスの電子部品に取り組んだのが始まりである。
セラミックスの電子部品は、戦時中は電波兵器に、戦後はラジオや通信機に用いられ、続いてテレビに大量に使用されて、需要が格段に増大した。今日ではビデオやオーディオ、コンピュータなどの電子機器のみでなく、自動車、時計、カメラから医療用機器にまで使われている。
2.京都大学と産学協同のきっかけ
昭和21年(1946)の秋、知り合いの金型屋の主人から「難しそうな碍子の注文があるのだが、君の所でできないか」と電話があった。依頼主は京都大学工学部電気教室の田中哲郎助教授であった。教室の人たちの生計の足しにするためクリスマスの飾りの点滅灯を作りたいので、部品に使う絶縁物を作って欲しいという。そこで、注文通りの品を納入し「サンプルを作るなど、お手伝いできれば手伝わせてください」と申出た。このご縁で、一緒にやろうということになり、ささやかな”産学共同”の機運が芽生えた。この出会いが間もなく大きな実を結び、その後の村田製作所の方向を決定することになるのである。
22年(1947)、田中先生は、チタン酸バリウム磁器の研究を始められた。チタン酸バリウム(チタバリ)は昭和19年、逓信省電気試験所の和久茂、小川建男先生が発見、ほぼ同時に米国、ソ連でも発見されていた。誘導率、即ち電気を蓄える力の驚異的に大きいチタバリは、後に私どものセラミック製品の主力材料になったばかりでなく、日本のエレクトロニクス産業を大きく進展させることになり、”世紀の発見“と言われた。
しかし、当時はまだ高誘電率であることはわかっても、詳しい特性は知られておらず、どう応用できるかも未解明だった。私にとっても大変興味のある素材であり、それからは、ますます頻繁に田中先生の研究室を訪れるようになった。当方では先生の注文どおり配合のチタン酸バリウムのサンプルを提供する。先生の方からは、米国の同業者のカタログを入手してもらう。こうして両者の相互協力体制が築かれていった。
そして24年〈1949〉春、田中研究室の岡崎博君がわが社に入社したあと、京都大学をはじめ、京都工業専門学校、京都第一工業学校などの卒業生が次々と入社してくれ、工場で生産にあたったり、田中研究室の応援に出かけるなどして、チタバリの特性を生かしたコンデンサーを開発した。25年に京大から二人目の入社となった、佐份利治君は放送機用パワー・コンデンサーを開発、このためわが社はNHKの指定メーカーになることができた。
3.世界初の魚群探知機を開発
NHKの放送用パワー・コンデンサーや防衛庁用の通信機器を独占供給できるようになったのは、当社のチタン酸バリウムの誘電特性を生かしたからだった。ところがチタバリには圧電特性というものがあることもわかっていた。電圧を加えると伸び縮みし、逆に振動を与えると電圧を生ずるという特性である。この特性を生かして最初に開発したのが魚群探知機用の振動子だった。
あるとき、日本無線の技術担当の中島茂専務が、田中先生の研究室を訪れ、魚群探知機用の振動子に困っていると話をされた。そして、その足でわが社に来られ、「研究の足しにしてください」と20万円の小切手を置いて行かれた。
ただちに田中先生の指導で振動子を開発、それを使って、やはり先生の教え子で日本無線に入社していた藤島啓君が魚群探知機を完成させた。世界初のチタン酸バリウム振動子を使った魚群探知機であり、漁業資源の増大が叫ばれていた時期だけに、大いに世の注目を浴びたのだった。
むらた あきら 村田 昭 | |
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生誕 | 村田 昭 むらた あきら 1921年3月25日 日本・京都府京都市東山区泉涌寺 |
現況 | 故人 |
死没 | 2006年2月3日(84歳没) 日本・京都第二赤十字病院 |
死因 | 肺炎 |
住居 | 日本 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 京都市立第一商業学校 (現:京都市立西京高等学校・附属中学校) |
職業 | 実業家 |
活動期間 | 1944年 - 2006年 |
肩書き | 村田製作所代表取締役名誉会長 日本電子材料工業会会長 |
任期 | 1991年 - 2006年 |
後任者 | 村田泰隆 |
子供 | 長男:村田泰隆(村田製作所相談役、前社長) 次男:村田理如(清水三年坂美術館創設者) 三男:村田恒夫(村田製作所代表取締役社長) |
受賞 | 1998年:アメリカ合衆国セラミックソサエティー名誉会員称号 |
村田 昭(むらた あきら、1921年(大正10年)3月25日 - 2006年(平成18年)2月3日)は、実業家である。村田製作所創業者・名誉会長・元会長・社長。