村上信夫 むらかみ のぶお

サービス

掲載時肩書帝国ホテル料理顧問
掲載期間2001/08/01〜2001/08/31
出身地東京都
生年月日1921/05/27
掲載回数30 回
執筆時年齢80 歳
最終学歴
小学校
学歴その他
入社ブラジル コーヒ店
配偶者母方(従姉妹)
主な仕事新橋第一ホテル、帝国ホテル、陸軍入隊(3/13生存)、ベルギー大使館33歳、パリ・リッツホテル研修、東京五輪食堂・料理長、バイキング創作
恩師・恩人原山寛治、石渡文治郎、犬丸徹三
人脈一柳一雄、筒井福夫(シャリピアン・ステーキ)、吉田徳平(サラダ)、ウィロビー少将、竹谷年子、小野正吉
備考北欧料理も修業
論評

1921年5月27日 – 2005年8月2日)は東京生まれ。フランス料理シェフ。元帝国ホテル顧問。愛称は「ムッシュ村上」。日本でフランス料理を広めた功労者。帝国ホテルの料理長を26年間務め、『きょうの料理』の名物講師として家庭へプロの味を広めた。バイキング方式での食べ放題型料理提供を考案した人物として知られている。1964年、東京オリンピック選手村食堂『富士食堂』料理長を務める。

1.鍋底が舐めたい
帝国ホテルの調理場に配属され、最初に回されたのは洗い場だ。鍋を洗い、雑用をこなす。調理場の名人たちに触れ、謦咳に接することができると思って、ワクワクして仕事に励んだ。だが、現場は甘くない。
 「おい、鍋屋」。調理場のコックに呼ばれると、まず始めるのが石鹸水つくりだ。粉せっけんを調合して渡すと、コックはそれを鍋にぶちまけてから洗い場に寄こす。塩を入れてくる人もいた。鍋の底に残ったソースを指ですくって味を覚えようという目論見は、木っ端みじんだった。
 帝国ホテルは日本一の調理場だから、「基礎から勉強し直そう」と心に決めていたが、これでは料理人のコツを盗むことさえできない。ショックだった。雑用の時でも、残ったソースを舐めようとするとゲンコツが飛んできた。宴会用に仕上げ、湯せんして置いてある料理を見ようとすると追っぱわれた。
 そのころの帝国ホテルの料理人の報酬は完全な能力給だった。今のように年功の加算はなく、腕次第。味を盗まれ、若い者が腕をあげると、自分の給料に響く。この分野で俺が日本一の気概が横溢していた。

2.誠意が見込まれ味のコツを
道が開けるきっかけは鍋磨きだった。鍋の中をきれいにして置くのは料理人の心得だが、時間を惜しんで外側は余り磨かない。私は休憩時間に休みたいのを我慢して、2か月ほどかけて200ほどの銅鍋をきれいに磨き上げた。調理場にピカピカの鍋が目立ち始めたある日、私が洗い場で仕事に励んでいると、ソースがほんの少し残った鍋が回って来て「アッ」と驚いた。がつがつ味見して、殴られると困る。調理場をうかがい、シェフを見ると、うなずいてくれた。一生懸命舐めて、味を舌に、のどに、腹に沁み込ませた。こうして、石鹸水や塩が混じっていない鍋が回ってくることが次第に増えてきた。
 当時帝国ホテルでは200種類ぐらいのソースを作っていたが、一つひとつ味を覚え、自分なりに素材の分量を割り出して、メモをため込んでいった。「手伝え」は「よく見てろ」の料理名人の意味だった。

3.料理人の名人芸
グリル料理長の筒井福夫さんはロシアの声楽家、シャピリアンが来日して帝国ホテルに滞在していた時、後に「シャピリアン・ステーキ」と名付けられるステーキを考案した人だ。この筒井ムッシュはこのステーキの味付けを誰にも明かさなかった。私たちが肉を叩いて延ばし、筒切りをして包丁の峰で松かさのように筋を付ける。下ごしらえを終え、漬け込みという肝心な場面になると、「おい、飯に行ってこい」と人払いする。時間はいつも図ったように午前11時で、ランチタイムに備えて早めの昼飯に行く時刻だった。
 ポテトサラダなど絶品メニューを幾つも持っていたオードブル料理長の吉田徳平さんのポテトサラダもそうだった。床にジャガイモを広げ、同じサイズのものを選んで茹でる。その間に玉ねぎを薄く切って塩を振り、水洗いの後、フキンで水気をとる。その頃にはイモが茹で上がるから、皮をむき、スライスして、さあ味付けと言う段になると、「おお、昼飯だ。行け、行け」となる。やっぱり11時。戻ると、人気の「いもサラ」は味つけを終え、冷蔵庫に冷やされていた。先輩の命令でそっと行って覗いてみると、ムッシュは網戸をしめ、カギをかけて最後の仕上げをしていた。苦心して作ったソースを味見した瞬間に捨てる。仕上げの味付けを無言でやり直す。達人たちのしごきは厳しかった。早く腕をあげたいと気ばかり焦っていたが、今思い起こすと至福の日々だった。

4.ホテル・リッツで本場の料理修業
昭和31年(1956)11月、犬丸徹三社長が選んでくれたのがこのホテルだった。帝国ホテルの料理総長、石渡文治郎さんも戦前リッツで修業し、当時料理長だったオーギュスト・エスコフィエの薫陶を受けている。「天皇陛下の料理人」秋山徳蔵さん、東京会館の料理長だった田中徳三郎さんも修業した名門だ。
 味を逃がさず、閉じ込めるには素材の吟味が大切だ。帝国ホテルの検品も厳しかったが、パリのホテル・リッツはより徹底していた。日本にはない素材も溢れている。そして味付け。どんな料理にも味を引き出すコツがあるが、リッツでもベテランシェフになるほど、肝心なポイントは教えてくれない。
 私の場合は幸運にも恵まれた。リッツのアンリ・ル・シュール料理長は引退間際で、遠い日本から来たコックに、仕事の合間に多くの料理のコツを伝授してくれた。ソースやスープをはじめ、料理長直伝のレシピは100種類を超えている。

5.東京オリンピック食堂の裏方
昭和39年(1964)、東京オリンピックは94か国から選手・役員が集まる世紀のイベント。華やかな舞台の裏では、関係者や報道陣を含めると1万人の胃袋を満たす大仕事が待っていた。ピークには1日に肉15トン、野菜6トン、卵が2万9千個、大量調理や冷凍保存のノウハウが欠かせなかった。
 代々木の選手村には3つの食堂ができた。欧州各国が中心の「桜食堂」は福原潔第一ホテル料理長、女子食堂は入江茂忠ホテルニューグランド料理長がトップに就任。食材供給を一手に賄うサプライセンターは馬場久日活ホテル料理長が責任者になった。私は日本、アジア、中東の選手団向けの「富士食堂」料理長になった。
 富士食堂で食事をした人は最盛期で3千人に達した。栄養摂取量の目安は一人一日6千キロカロリー。大型の冷蔵庫や調理設備フルに活用して、主だった料理は数百人分作った。ステーキなら3枚はペロリという大食漢も多い。ピカピカにした調理台の上に塩とコショウを敷いておき、焼く直前に肉を調理台に乗せ、流れ作業でどんどん焼いた。
 日本ホテル協会が集めたコックは約300名で、三分の一が富士食堂に来た。調理手順を統一し、大量調理のマニュアルを作った。段取りが勝負だから、知恵を絞った。帝国ホテルから冷凍食品を知り尽くした白鳥浩三さんが来てくれた。冷凍食品の大活躍で帝国ホテルも五輪閉幕後、すぐに大型の冷凍庫や調理設備が本格化して、千人を超す宴会は何でもなくなった。300人のコックたちも各地の職場に戻り、その経験を生かして高度経済成長時代のホテルの調理場を支えていく。

村上 信夫(むらかみ のぶお)


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