掲載時肩書 | 国立がんセンター総長 |
---|---|
掲載期間 | 1993/11/01〜1993/11/30 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1926/04/20 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 67 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 現武蔵高 |
入社 | 癌研究所 |
配偶者 | 放射線科助手(東邦大) |
主な仕事 | 生化学、放射線科、フルブライト留学、コエンザイムQ、がんセンター、胃がん作成、化学発がん、対がん10年戦略 |
恩師・恩人 | 中原和郎 吉田富三 |
人脈 | 山田耕筰(母・学友)、黒澤明、武満徹、中山恒明、落合英二、長尾美奈子、赤堀四郎、早石修、山村雄一、高松宮妃殿下 |
備考 | 父・警察官僚→病院長 |
1926年4月20日 – 2020年9月6日)は東京生まれ。医学者(生化学・腫瘍学)・医師。学位は、医学博士(東京大学・1957年)。国立がんセンター名誉総長、国立がん研究センター名誉総長。また、東邦大学の学長に就任し、のちに名誉学長の称号を贈られた。日本学士院会員に選任され院長に就任するとともに、米国・スウェーデン・オランダ学士院外国会員にも選任された。
1.インターン時代
昭和24年(1949)、東大医学部を卒業した。大学を出るとインターンとして、いろんな診療科を回って研修する制度が当時はあった。大学病院の各科には、美人の看護婦さんがたくさんいた。1か月ごとに内科、外科などを渡り歩くインターン生活は、きれいな看護婦さんの存在もあって楽しかった。ハイキングに行ったり、コンパと呼ぶ一種のパーティを開いたり、友人とグループでお付き合いした。看護婦さんと結婚した友人は多い。最近に比べると医師と看護婦の結婚はずいぶん多かったと記憶している。
相手の人格を認め、パートナーとして生涯を共にしようと考えなければ、結婚相手は選べない。戦後の混沌の中で、患者さんを一緒にみながら、お互いを理解し合うという原点の部分で彼らは結びついたのだろうと思う。今に比べて医療システムにおける看護婦さんの地位が高かったわけではない。混乱期だからこそ、原点喪失の現代とは違う人間同士の真摯な理解があったような気がする。
2.放射線科に入局
インターンの1年が終わると、どこかの医局に入ることになる。私は自分の進路を、学外に求めた。吉田肉腫をつくった吉田富三博士が東北大学の教授をしておられたので、お目にかかるため仙台に出かけた。昭和25年〈1950〉の冬である。吉田先生は化学物質で内蔵のガンを最初に作り、その後、経代移植することができるラットの腹水ガン=吉田肉腫を作るのに成功している。日本を代表するガン研究の先達が、叔父の杉村顕道と東京・錦城中学で同級だったよしみで、会ってくださった。先生の助言は「友達のいる東大にいた方がいい」というものだった。
その助言に従って、私は東大の放射線科に入り、診療も担当した。なんせめったに医局に人が来ない所だから、すぐに国家公務員・文部教官になれた。無給の医局員と違い、私は同級生のうちでは真っ先に月給がもらえる立場になった。しかし、診療は重いガンの患者さんがほとんどで医師として最初に担当した患者さんも、転移で亡くなった。
その頃の放射線科にあったX線の装置は、出力が130キロボルト、3ミリアンペア程度で、進行ガンの患者さんを回復させるパワーはなかった。治癒の見込みは低いのに「明日はよくなる」と言い続ける。この偽善、”必要偽善“に耐えられなくなって、ガンを根本的に退治するための研究をしなければと、思い始めた。
3.発ガン物質、4NQOの発見
運というべきか縁というべきか。たくさんの出会いの中で、4NQOという国産の発ガン物質に遭遇したことが、私のガン研究の展開を広く大きくしてくれたと思う。昭和30年〈1950〉代も後半に入るとガンの研究も分子レベルでの仕事に重点が移っていく。それに十分対応できる優れた性質を4NQOは備えていたのである。
発ガン物質が体内で代謝され、遺伝子DNAに結合したり、DNAを切断することは、今ではごく当たり前の常識である。我々の研究グループは、分子腫瘍学の黎明期にこのプロセスを早々に知ることができた。それは4NQOが微生物でも高等動物と同じように代謝され発ガン・変異原性を示すので、微生物を使って発ガン機構の解明ができるからだ。4NQOとDNAの結合や、DNAの切断についての成果は、英国の科学雑誌「ネイチャー」に論文を送り、採用・掲載された。
昭和30年代の後半に、がんセンターの研究チームが世界で初めて、化学物質で動物に胃ガンを作ることに成功したのも、4NQOを使った発ガン機構解明の延長線上の成果である。微生物に突然変異を起こすことで有名なニトロソグアニジン(MNNG)という物質には、動物にガンをつくる発ガン作用もあるはずだと、ラットに皮下注射で投与した。なかなか結果が出ないので、実験助手の岡田好清君にラットの処分をお願いしたところ、ガンらしいものができていると知らせてくれた。
氏は‘20年9月6日、94歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は1993年11月で67歳のときでした。氏の履歴書には、母親が東京音楽学校(現東京芸大)の器楽科でピアノを学んだ。そのときの同級生が山田耕筰氏で、母は卒業後も親しく山田氏に支援していただいたと書いている。
ビキニの水爆実験と放射能
昭和29年(1954)の米国によるビキニ岩礁での水爆実験では、南太平洋産の魚が放射線科に持ち込まれてきた。大きな魚の胃を見ると中ぐらいの魚がたくさん入っている。魚のほとんどはかなり高い放射能を持っていた。また、その時にビキニで被爆した第五福竜丸の乗組員の方の毛髪が研究室に届き、X線写真のフイルムに挟んで一晩おいたところ、そのままの形でフィルムに写っていた。相当な放射能が毛髪にあったことを示している。
がん研究の動機
私がガンの研究に入ったのは、最初に担当した進行ガンの患者さんに対し無力であったという思いのほか、ガンが極めて生物学的な病気だということもある。細胞レベル、分子レベルでその生物学を研究しなければ、征服できない病気である。もともと生物学に強い関心を抱いていた私は、医学の中でも最も生物学的な分野へと傾斜していった。
科学と社会
1949年ごろ、DDT,BHCなど強力な殺虫剤が販売禁止された。殺虫剤でガンになる人が救われる一方で、蚊が増えてマラリアの患者も増える。極端な話をすれば、百万人に一人の確率のガンを予防することには熱心な人も、その陰でマラリアによる死者が増えていく現実に目をつぶる。これは明らかな矛盾である。また、植物の色素であるフラボノイドなどは、微生物に対する変異原性はあるが、発ガン性はない。変異原性に重点を置いて発ガン性を評価するのが、いつも正しいとは限らない。この時に感じたたくさんの問題点が、後の化学発ガンに関する一連の研究に繋がっていく。
遺伝子に標的を絞る
ガンの分子レベルの解析は、がん遺伝子やガン抑制遺伝子など、遺伝子自体にターゲットが移っていった。細胞自身が内部に抱えている遺伝子にガン化の秘密が隠されている。昭和56年(1981)に第3回国際環境変異原学会を、東京で開き会長を務めた。このころから化学発ガン物質だけでなく、ガン遺伝子の研究になるという予感があった。私は昭和59年に石川総長の後任として、国立がんセンター総長になった。この潮流が、がん遺伝子の研究を中核とする「対ガン10か年戦略」のスタートにつながったのである。
すぎむら たかし 杉村 隆 | |
---|---|
日本学士院により 公表された肖像写真 | |
生誕 | 杉村 隆(すぎむら たかし) 1926年4月20日 東京府 |
死没 | 2020年9月6日(94歳没) 東京都 |
居住 | 日本 アメリカ合衆国 |
国籍 | 日本 |
研究分野 | 医学 |
研究機関 | 東京大学 癌研究会 アメリカ国立癌研究所 ウエスタンリザーブ大学 国立がんセンター 東邦大学 |
出身校 | 東京大学医学部卒業 |
博士課程 指導教員 | 中泉正徳 |
主な業績 | 実験発がん研究 Poly (ADP-ribose)の発見 |
主な受賞歴 | 恩賜賞 日本学士院賞 日本国際賞 |
プロジェクト:人物伝 |
杉村 隆(すぎむら たかし、1926年4月20日 - 2020年9月6日)は、日本の医学者(生化学・腫瘍学)・医師。学位は、医学博士(東京大学・1957年)。国立がんセンター名誉総長、東邦大学名誉学長、国立がん研究センター名誉総長。日本学士院会員。文化功労者。位階は従三位、勲等は勲一等。
東京大学医学部助手、財団法人癌研究会癌研究所研究員、国立がんセンター研究所研究員、国立がんセンター研究所生化学部部長、国立がんセンター研究所所長、国立がんセンター総長、東邦大学学長、日本学士院院長などを歴任した。