本坊豊吉 ほんぼう とよきち

食品

掲載時肩書薩摩酒造社長
掲載期間1988/09/01〜1988/09/30
出身地鹿児島県
生年月日1905/08/01
掲載回数29 回
執筆時年齢83 歳
最終学歴
慶應大学
学歴その他慶応予
入社本坊合資
配偶者見合い
主な仕事南薩鉄道、長崎自動車、タクシー事業、上海食品、上海中外製薬、日本澱粉工業、薩摩酒造、ワイン、ウイスキー、コーラ、ブラジル、米国
恩師・恩人岡崎嘉平太、柳家金語楼
人脈長兄・浅吉(焼酎創業)、上野十蔵(中外)、菅原謙次(CM)、田崎三男、鮫島吉広
備考7男三女の9番目
論評

明治38年(1905)8月1日~平成4年(1992)1月6日)鹿児島県生まれ。昭和-平成時代の実業家。本坊浅吉の弟。昭和36年郷里鹿児島県の薩摩(さつま)酒造,本坊酒造の社長となり,「さつま白波」で全国的な焼酎ブームをまき起こした。長崎自動車、上海食品工業各社長、中外製薬常務を歴任。昭和36年加世田商工会議所会頭。57年鹿児島放送設立の際社長となり、62年6月会長に就任。南九州コカ・コーラボトリング社長もつとめた。

1.さつま白波の誕生
昭和3年(1928)、父本坊松左衛門が亡くなった後、兄弟7人はそれまでの個人経営を合名会社組織に改め、本坊合名会社を設立した。これが現在の本坊酒造である。昭和24年に身売りとなっていた薩摩合同酒精を薩摩酒造に改称し、「薩摩乙女」という銘柄を一貫して生産することとなった。昭和20年代の前半は、従業員10数人で、販売量も二千石(360キロリットル)程度の、どこにもある焼酎会社だった。その薩摩酒造が急成長するチャンスが20年代後半に訪れる。
それが引き受けた倒産酒造会社の持つブランド商品「白波」である。「さつま白波」と商品名を少し変えたが、人気銘柄ぶりは以前と変わらず、薩摩酒造が戦前からつくっていた「薩摩乙女」を凌ぐ稼ぎ手となった。ある日突然、思いがけず手に入れたものが、企業の歴史を変えていくことが、時としてある。薩摩酒造の「さつま白波」がまさにそうだった。しかし、思いがけない「運」を生かすのは、意欲的な経営努力だと思う。鹿児島だけの人気銘柄から、九州全体、日本全体への人気銘柄を目指す兄弟の経営努力が、ここから始まる。

2.鹿児島から九州全体そして全国展開
昭和36年(1961)、本坊酒造と薩摩酒造の社長に、私が就任することになった。そのうちに見ず知らずの福岡の人から「白波を飲みたいのだが・・」といった声が届き始めた。どうやら、鹿児島からの転勤者や旅行者の口コミで、福岡市など北九州に「さつま白波」の名が伝わったらしい。当局からの生産規制が続く中で県外出荷はまだ不可能に近い状態だったが、白波の将来に確かな手ごたえを感じた。
 生産規制は44年(1969)に撤廃された。同時に国税当局からは、県内の零細焼酎メーカー保護のため、県内シエアを急に高めないように、との申し入れがあった。そんな環境の中、増産開始と共に、まず福岡への出荷がスタートするのは、自然の成り行きである。福岡進出に当たっては、大々的にテレビコマーシャルを打つことにした。コマーシャルには、当時、NHKのテレビ番組「ジェスチャー」で人気者だった落語家、柳家金語楼さんを起用した。効果は抜群だった。40年代後半、福岡を中心に焼酎ブームが巻き起こり、「さつま白波」の販売量は4、5年間に倍増した。そして九州の後は、東京への進出だった。

3.焼酎の飲み方
東京進出のコマーシャルには、白波ブランド名の売り込みと同時に、「白波はロクヨン(焼酎6に対し湯が4)のお湯割りで飲む」と、飲み方の宣伝に重点を置いた。焼酎の馴染の薄かった人たちには、飲み方から始める必要があった。「酔い覚めさわやか」という文句も、都会人には受けたと思う。
 もっとも、私たちが最初に考えていたのは、「六四」ではなくて「七三」のお湯割りだった。今でこそ、焼酎には熱いお湯がつきものと考えられているが、南九州では割らずに生(き)のままで飲む人も多かった。鹿児島ではチョカという独特の酒器で、水で割った焼酎を火にかけて飲むのが習わしだが、その割方は「七三」か、それ以上に焼酎が多かったのではなかろうか。私なども、生のまま飲む部類で、酒飲みの薩摩っぽにとっては、「六四」はいかにも、軟弱に思えたのだろう。ところで、鹿児島のイモ焼酎のアルコール度数は普通25度である。これをロクヨンのお湯割りにすると15度になるわけで、16度前後の清酒と丁度同じくらいになる。これがロクヨンの合理的根拠と言えなくもない。

本坊 豊吉(ほんぼう とよきち、1905年8月1日 - 1992年1月6日)は、日本の経営者鹿児島県加世田市出身[1]

  1. ^ 人事興信所 1991, ほ76頁.
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