掲載時肩書 | 彫刻家 |
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掲載期間 | 1958/12/17〜1958/12/31 |
出身地 | 大分県 |
生年月日 | 1883/03/01 |
掲載回数 | 15 回 |
執筆時年齢 | 75 歳 |
最終学歴 | 東京藝術大学 |
学歴その他 | 東京美術専科 |
入社 | 動物スケッチ |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 卒業迄1200制作、主観→純客観制作、朝倉彫塑塾(月謝無)、肖像400、ロダン120、ミケラン80、官展改革、 |
恩師・恩人 | 岩村透 教授仲人 |
人脈 | 正木美大校長、田村松魚(俊子・妻)、尾竹越堂、川合玉堂、和田英作 |
備考 | 碁5歳→俳句12歳、 |
1883年(明治16年)3月1日 – 1964年(昭和39年)4月18日)は、明治から昭和の彫刻家(彫塑家)である。「東洋のロダン」と呼ばれた。舞台美術家・画家の朝倉摂(摂子)は長女、彫刻家の朝倉響子は次女。
朝倉は東洋ランの栽培や活け花、盆栽などに造詣が深く『東洋蘭の作り方』(三省堂書店 1940年(昭和15年))という著書を残している他、盆栽家・小林憲雄と共に当時趣味の世界でしかなかった盆栽の芸術的価値を見出し現在も開催されている「国風盆栽展」の開催に尽力した。また自身の彫塑塾においても「園芸」が必修科目とされ、今も残る朝倉彫塑館の屋上菜園ではトマトや大根を育てるなど自然との触れ合いを芸術の基本概念と考えており、彫塑作品の野外展示も積極的に行った。
1.絵画と彫刻のデッサンの違い
この二つはおのずから別のものでなくてはならない。デッサンをしていると平面観、立体観どっちつかずの視力に育っていく。だから立体の目になおして、その上でデッサンをやってはじめて彫刻的デッサンができる。彫刻家は、画家と違って、そういう立体的な彫刻デッサンをせねばいけないというのである。
そこで私は、絵画デッサンのアトリエは北光線がいいというが、彫刻家のアトリエは何も北光線に限らない、と主張するようになった。
2.優れた作品の良さよりも欠点を重視
明治から大正の時代は、ロダン、ムニエが大流行だったし、実際彼らの作品は立派だった。それを真似すれば、世に出るのも早いし、認められるかもしれないが、付け焼刃はいつかはげるものだ。どこまでも自分は自分でいかなければならない。そこで私は、先輩や古人の作品でいいと思ったときには、その作品の中から欠点を見出すことを心がけた。欠点を見出してそれを自分の制作上の戒めにした。
人の作品の良さばかり見えるとマネをする。しかも決していいところをマネ得ずに、欠点をマネるものだ、ということが分かったのである。それを私は生涯主張し続けることになった。
3.私の指導法
和服に袴をはいた私は、教室で学生にくつを脱がせて裸足か草履をはかせた。当時の美術学校の彫塑科の教室は実に汚かったうえに腰掛もなかったくらいである。そこで学生たちの賛成を得て、教室を掃除させ、教室から帰るときには自分のいたところを拭いて帰らせた。
裸足や草履でやらせたのには理由がある。彫刻をするときには足の親指に力を入れなければならないが、靴やスリッパでは力が入らないからである。また私は彫刻をするときの姿勢をやかましく言った。だから私の教育はずいぶん時代遅れに聞こえるかもしれないし、事実そんな声を耳にもした。こわいような妙な先生だったらしい。そこで「おやじ」というニックネームをもらった。
4.肖像彫刻は人物を知ること
これを作るときは、形の上からはもちろんだが、内面的にもそれがどんな偉い人であっても思いっきり観察しなくては作れるものではない。その相手を通して自然に社会とか人生とかというものが分かってくる。
同時に人相、骨相も形の研究と一緒に分かってきた。それには若いころ南洋へ行き、世界の人種博覧会場だといわれたシンガポールあたりで民族的な研究を体験していたのが大いに役立った。27歳で井上馨侯の像を兄と二人で作ったのを手始めに大隈侯とか明治の元勲にはたいがい面接している。50年間の間には徳富蘇峰さんと私とが一番そういう元勲や名士と接触した数が多いのではなかろうか。その結果約400の肖像を作った。だから肖像だけでは世界の彫刻家では私が記録だろう。ロダンが120ぐらい、ミケランジェロが80ぐらい、日本で100作った人はいないだろう。