掲載時肩書 | 作曲家 |
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掲載期間 | 1981/07/24〜1981/08/19 |
出身地 | 大阪府 |
生年月日 | 1907/10/01 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 73 歳 |
最終学歴 | 商業高校 |
学歴その他 | 天王寺商業高 |
入社 | 貿易商 |
配偶者 | 京焼商家娘 |
主な仕事 | 妹・宝塚、歌手、サックス奏者、少年音楽隊、上京27歳、コロンビア、「別れのブルース」「蘇州夜曲」「青い山脈」 |
恩師・恩人 | 橘宗一、エマニエル・メッテル |
人脈 | 安井郁、朝比奈隆、ディック・ミネ(ドラム)、古賀政男、西條八十、灰田勝彦(弟子)、美ち奴、笠置シズ子、エノケン、藤山一郎 |
備考 | 父:人形師、服部竜太郎(仲人) |
氏は、小学生のころから音楽の才能を発揮したが、学校を卒業後は商人になるためと、昼は働き、夜は大阪市立実践商業学校(現天王寺商業高校)に通うという日々を送った。姉の勧めで、好きな音楽をやりながら給金がもらえる千日前の出雲屋少年音楽隊に一番の成績で入隊する。しかしその2年後に、第一次大戦後の不景気もあって音楽隊は解散してしまう。当初はオーボエを担当したが、粗悪な楽器で満足に音が出ず、サックスとフルートに転向してから著しく進歩を見せたと、書いている。
1.恩師・エマヌエル・メッテル氏
氏は、大阪フィルハーモニック・オーケストラに入団(第2フルートを担当)した際、ここで指揮者を務めていた亡命ロシア人の音楽家エマヌエル・メッテルに見いだされ、恩師となるメッテル先生から4年にわたって音楽理論・作曲・指揮の指導を受けた。同じ門下生に指揮者の朝比奈隆氏がいたが、先生は服部氏に「アサヒナサン、ヨイシキシャニナリマス」と褒め、朝比奈氏には「ハットリサン、ヨクベンキョウシマス。アナタダメ」と競争心を煽ったそうだ。氏は、メッテル師に和声学をはじめ指揮法、管弦楽法を徹底的に叩き込まれたことが、その後にどれだけ役立ったか計り知れないと感謝している。そして先生は「自分が習ったことは弟子を取って教えなさい。生徒の宿題や質問は自分の復習になります」と言われた。これを守り、飯田三郎、レイモンド服部、灰田晴彦など30数名に毎月1回作曲の課題を出したり、ソナタや弦楽四重奏を書かせたりして一緒に勉強したと書いている。
2.ハーモニカの略符は数字で
私(吉田)が一番驚いたのは、氏が戦後の満員電車の中でフッと曲想がわいてきたとき、とっさに鉛筆を取り出しハーモニカの略符で書き始めた。6032、3343、64322、3000、3377、0776、3317、6000、5003、6050、4324、3000+ と記す。「周りの人たちには、恐らくヤミ屋仲間が商売の計算でもしていると見えたかも知れない」と述懐しているが、五線譜に音符を使わず、数字で作曲するとは、と思い笑ってしまった。
3.音楽の神秘性を生むもの
氏の生涯作品は3000曲以上あるが、曲づくりに対する姿勢を次のように書いている。
「自作品のすべてが、音楽の神秘性にふさわしい価値がある作品であったとは、もちろん考えない。しかし、流行歌、ジャズに始まって校歌、社歌に至るまで、少なくとも一貫して音楽の神秘性に捧げる姿勢で書いてきた。ブルースもブキウギも交響曲も同じことで、その一つずつに自己の芸魂を打ち込んで捧げてきた。ある時は学校の校庭で、全児童、全職員、PTAとともに、その校歌に与えた神秘的なものに心打たれ、また、ある会社の社歌を書き、その発表の日に、全社員とともに大声を張り上げて心から歌い続ける社長の感激の涙も見た。この光景、この姿勢こそ、音楽が他の芸術よりも直接、心に訴える何かがあることを示している。それも一人の人間の真の創作的意欲、まじり気なしの人間性が、なにものにもかえ難い神秘を生むものである。この気持ちを忘れず、私はこれからも命の続く限り作りとおす」と力強く結んでいた。
1.笠置シズ子さん
1928年松竹楽劇団の第一回公演「スイング・アルバム」には中川三郎、青山圭男、山口国敏といった人たちも加わったが、この一座に大阪から売出しの人気歌手として参加したのが笠置シズ子で、大変な前宣伝だった。ごった返す稽古場の片隅で、音楽の打合せのために引き合わされたのが彼女との最初の出会いだった。どんなすばらしいプリマドンナかと期待していたら、薬瓶をぶら下げ、トラホームのように目をショボショボさせた女性で、これがスターだとはとても思えない。「よろしゅう頼んまっせ」と挨拶されたが、どこか裏町の子守女かと見違うようだった。
ところが、その夜遅く始まった舞台稽古では、思わず目を見張らされた。鉄砲玉のように飛び出してきてジャズに乗って踊るその動きの派手でスイングのあること・・・昼間のトラホーム娘とはまるで別人のような長いつけまつげで激しく歌って踊る。なるほどこれが世間で騒いでいた歌手かと、僕はその日からすっかり笠置君のファンになって、「ラッパと娘」「センチメンタル・ダイナ」などを彼女のためにオリジナル曲を次々に書いた。
昭和22年(1947)、初めて笠置君に「東京ブギブギ」を歌わせたときは、「とにかくブギは、身体をくねらせてジグザグに動いて踊りながら歌うんだ」と教えたので、彼女は不思議な振りを考え、ステージで披露した。それが大受けで、彼女のステージには有楽町や上野の夜の天使たちまでが、ものすごい声援を送った。「買物ブギ」は昔、大阪の法善寺横丁の寄席で聞いた上方落語の「ないもの買い」をヒントに、村雨まさおのペンネームで歌詞も自分で書き、大阪弁の面白さをねらった。魚屋、八百屋と買い物をする光景を、品物を羅列してギャクに仕立てたわけだが、レッスン途中で笠置君が舌を噛みそうになって「ヤヤコシ、ヤヤコシ」と言い出したのを、そのまま歌詞に織り込んだものである。「ワテほんまによう言わんワ」や「おっさんおっさん」が当時の流行語になり、昭和25年(1950)に「ブギ海を渡る」のタイトルで笠置君とアメリカ公演に出かけたときは、途中のハワイで街を歩いていると「オッサンオッサン」と呼びかけられて思わず苦笑したものだ。
2.日本レコード大賞の創設
昭和33年(1958)、作曲家仲間の有志にはかり、レコード会社専属の作曲家たちに呼び掛けて日本作曲家協会を作った。最初は、わずか20~30人の会員で、古賀政男氏を会長に、僕が理事長になって発足した。昭和53年(1978)に古賀氏が亡くなられたあと、僕が推されて会長になった。
作曲家協会の最初の仕事は、世界の各国にあってわが国にはないディスク・グランプリの制定だった。それが「日本レコード大賞」で、レコード界の繁栄と発展向上を目指し、作詞・作曲、歌手陣の奮起を促すのが目的である。レコード会社や歌手たちの協賛を得て、第1回の発表演奏会を東京・文京公会堂で開いたのは昭和34年(1959)だったが、初めの頃は世間の関心も薄かった。レコード大賞の第一回受賞作品は永六輔作詞、中村八大作曲、水原弘歌唱の「黒い花びら」だった。会場の入り口の前で、「ただいま美空ひばりが歌っています。無料ですから、お入りください」と道行く人たちに大声で呼び掛けるくらいだったが、それでもステージの上より観客席の方が人数が少ないというありさまだった。
しかし、あれから20年以上たった今日では、レコード大賞の入場券は僕にだって手に入らないほどに発展した。大賞ほか各賞の受賞者から実力者、人気歌手、アイドルなどが年々芸能界に進出して活躍し、文字どおりレコード界の登竜門として社会に広く認識されるようになった。
服部 良一 | |
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1951年 | |
基本情報 | |
別名 | 村雨まさを 夏端齢[1] |
生誕 | 1907年10月1日 日本 大阪府大阪市天王寺区玉造 |
出身地 | 日本 大阪府大阪市中央区 |
死没 | 1993年1月30日(85歳没) 日本 東京都品川区旗の台(昭和大学病院)[2] |
ジャンル | 歌謡曲、J-POP |
活動期間 | 1936年 - 1993年 |
服部 良一(はっとり りょういち、1907年(明治40年)10月1日 - 1993年(平成5年)1月30日)は、日本の作曲家、編曲家。位階は従四位。
作詞家として村雨 まさを(むらさめ まさお)の名がある。なお、同姓の服部正や服部逸郎との血縁関係はない[注 1]。
ジャズで音楽感性を磨いた和製ポップス史における重要な音楽家の一人である。
代表作に『別れのブルース』『東京ブギウギ』『青い山脈』『銀座カンカン娘』などがあり、いずれも時代を象徴する国民的ヒット曲として知られる。
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