掲載時肩書 | 民社党委員長 |
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掲載期間 | 1972/03/20〜1972/04/16 |
出身地 | 岐阜県 |
生年月日 | 1910/03/25 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 62 歳 |
最終学歴 | 専門学校 |
学歴その他 | 逓信教 習所 |
入社 | 高須郵便局 |
配偶者 | 貿易 事務員 |
主な仕事 | 文学・詩人、文学者巡り、睡眠薬自殺、貿易マン、春日楽器、社会党、民社党 |
恩師・恩人 | 上原(姉の夫)、佐藤幸右衛門 |
人脈 | 林芙美子、赤松勇、伊藤長光、加藤勘十、佐々木良作、山本幸一、池田禎治、加藤シズエ、西尾末広、塚本三郎 |
備考 | 詩・多数掲載 |
1910年(明治43年)3月25日 – 1989年(平成元年)5月2日)は岐阜県生まれ。政治家、実業家。1967年6月、民社党書記長に就任。1969年2月には副委員長(選対委員長兼務)に昇格。1969~70年の公明党・創価学会の政教分離問題(言論出版妨害事件)では、池田大作の証人喚問の要求や、共産党宮本スパイ事件における宮本顕治の証人喚問の要求を行う。演説の巧者として知られており、その演説は「春日節」との異名を取った。面倒見がよく、名古屋周辺の県市町村会議員には春日の秘書出身者が多い。
1.文学青年を目指し林芙美子氏を訪ねる
1930年二十歳のとき、今まで書き溜めた原稿を取りまとめて上京し、林芙美子さんを訪ねた。東京都杉並区和田堀之内浅加園、この地名を私は終生忘れない。尋ね尋ねて、私は林さんのその家にたどり着いた。手紙は出してあったが初対面である。小柄でオカッパ姿、眼鏡の顔はわずかに微笑を浮かべていたが、歓迎される根拠はない。
「私は、文学で身を立てたいと志していること、私の作品はこれこれ、お読みいただいて、どこかの雑誌に紹介してもらいたい」ことなどを頼み込んだ。思うに当時、売り出しの林さんにはこの種の来訪者はひんぴんたるものであったに違いない。「こんなにたくさんお預かりしても読めません。それでは、あなたの自信のあるもの2、3だけ」と言われた。
それから安宿に寝泊まりして7、8日後、再訪すると林さんは、「これとこれはいいと思うから、春月さんの詩文学へ紹介しましょう。でも掲載されるかどうかわかりませんよ」と答えてくれた。
2.両親から勘当
林さんが紹介してくれた私の詩が、3月後、生田春月主宰の「詩文学」に掲載された。すると仲間から「道は開けた。これからだ。いよいよ頑張ってくれ」と激励の手紙が数人の友から送られてきた。「詩文学」へはその後も、しきりに原稿を書き送り、私の作品は好評のうちに掲載されてはいったが、原稿の収入など些少なものでしかなかった。折しも世を挙げての不況時代、失業者は巷にあふれて、ルンペン・プロレタリアートなどの新語が流行していた。就職口を求めていろいろ探しても見つからず、自暴自棄になっていた。
二十歳を過ぎた百姓の息子が、髪はぼうぼう、朝夕けじめもなく読んだり書いたり、家の仕事を手伝いもせず勝手気まま・・・。これでは、わけて気性の荒々しい父が見過ごしておくわけがなく、だからと言っていまさら、私もどうしようもなく、この間に立つ母は、ハラハラと気をもむばかりで、それは痛ましいほどだった。
その年の秋も深いころ、何かのきっかけで父は激怒し、私にこと改めて勘当を言い渡すことになってしまった。母も「その方が良い。お前も男なら苦労して、自分で身を立てるが一番良い。それまでは家に帰って来るな」と涙ながらに諭すのであった。父は「サァ、これを持っていけ」と10円札を私の前に投げ出した。
3.自殺未遂・・・仮死3日間
自分に文才があろうなどのうぬぼれは、もう跡形もなく消え失せていた。23歳、死を思い始めて、名古屋の覚王山。夜はもう10時を過ぎていた。真っ暗な山道を、私は奥へ奥へと歩いて行った。誰の目にも触れることもなく、日がたち、年が過ぎればやがて土に返った私の体に、スミレやタンポポが咲くのであろうかと、思いはもうこの世のものではなかったような気がする。歩き歩いているうちに、疲れ切って立ち上がれない。
「ままよ、ここで」とカルモチンをほお張って、ミカン水を瓶からラッパ飲み、そしてそれをひと思いに喉元深く流し込んだ。星がきれいに瞬いている。痛くも苦しくもないではないか。そんなことをいぶかっているうちに、まもなく昏睡の奈落に沈没して行ったようである。
三日三晩、苦しみもがいてそこらあたりを転げ回っていたのであろう。顔も手も擦り傷だらけになっていた。胃洗浄―小バケツに一杯ほど、大量の水がゴム管で胃に注ぎ込まれた。間もなくあたかも鯨の潮吹きように、黒いギラギラの水がバッとばかりに私の喉奥から噴き出して、助かったそうだ。
春日 一幸 かすが いっこう | |
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生年月日 | 1910年3月25日 |
出生地 | 岐阜県海津郡東江村(現:海津市) |
没年月日 | 1989年5月2日(79歳没) |
死没地 | 愛知県名古屋市瑞穂区 (名古屋市立大学病院) |
出身校 | 旧制名古屋逓信講習所 (現日本郵便中央郵政研修センター) |
前職 | 逓信省職員 春日楽器製造社長 |
所属政党 | (日本社会党→) (右派社会党→) (日本社会党→) 民社党 |
称号 | 正三位 勲一等旭日大綬章 |
選挙区 | 旧愛知1区 |
当選回数 | 14回 |
在任期間 | 1952年10月2日 - 1989年5月2日 |
第3代 民社党中央執行委員長 | |
在任期間 | 1971年4月27日 - 1977年11月28日 |
選挙区 | 名古屋市中村区選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1947年4月30日 - 1952年9月5日 |
春日 一幸(かすが いっこう、1910年(明治43年)3月25日 - 1989年(平成元年)5月2日)は、日本の政治家、実業家。勲章は正三位勲一等旭日大綬章。