掲載時肩書 | 興人相談役 |
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掲載期間 | 1980/12/01〜1980/12/31 |
出身地 | 宮城県仙台 |
生年月日 | 1897/06/06 |
掲載回数 | 31 回 |
執筆時年齢 | 83 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | 慶應予科 |
入社 | ペンキ屋(自) |
配偶者 | 有吉義弥妻・友 |
主な仕事 | 慶応落第5回、お茶屋遊び、山岳部、東京建鉄再建、大同特殊鋼、東京管財人懇話会、興人 、仙台放送、かき養殖 |
恩師・恩人 | 遠山元一 |
人脈 | 父(仙台市長)、藤山愛一郎・森村勇・槇有恒(慶応)秩父宮様、牧田与一郎、大倉喜七郎、渋沢敬三、稲山嘉寛 |
備考 | 学生時代3億円財産分けで散財、10数社の企業再建 |
1897年(明治30年)6月6日 – 1991年(平成3年)11月10日)は宮城県生まれ。実業家。戦後数々の大型倒産において管財人として企業再建に取り組み、「会社再建の神様」と呼ばれている。1925年(大正14年)慶大卒業後、登山仲間とともにペンキ屋「紀屋(きや)」を起業するが、1930年(昭和5年)年末に得意先の東京建鐵が経営不振に陥り経営陣に迎えられる。これを切っ掛けとして早川の企業再建請負人としてのキャリアをスタートする。戦後、日本特殊鋼(現・大同特殊鋼)・佐藤造機(現・三菱マヒンドラ農機)の管財人を務め、1974年に当時史上最大の倒産と言われた興人の経営破綻にあたって周囲から推される格好で管財人に推された。早川の指揮の下、興人は1989年に再建を完了した。二女・竹子(東北大学元学長・西澤潤一の妻)
1.学生時代に3億円の財産分けで散財
私が道楽を始めたころの花柳界は、第一次大戦〈1914~1918〉がもたらした好況に沸き、船成り金や株屋が豪遊していた。座敷に豆腐を並べ、しりまくりをした芸者に田植えをさせた、といったバカ騒ぎの話をあちこちで聞かされた。私にはそんな金はないし、そんな遊び方は性に合わない。しかし悪ふざけはよくやった。芸者だけでなく、太鼓持ちとも親しかったので、太鼓持ちに慶応の学生服を着せ、私が太鼓持ちの格好をして新橋を歩いたりした。
花柳界のある所は一般に三業地と言われるが、葭町(よしちょう)、柳橋、新橋などは料理屋、待合、船宿、芸者、太鼓持ちで五業組合を形成していた。遊ぶのは何も夜とは限らない。昼間からでもお茶屋に上がる。新橋だと、お茶屋で飲んで、夕方になると舟を出し、御台場あたりで投網を打ったりした。遊びが夜だけとなったのは、関東大震災があって、世の中がケチ臭くなってからのことだ。よく行ったのは葭町で、次に新橋という順だった。母にあおられたので、柳橋や深川にも足を運んだ。
2.花柳界復興の手伝い
戦後の公職追放で無聊の日々を送っていたころ、大倉喜七郎さんから新橋のお茶屋に呼び出しがかかった。そこに行くと、大倉さんの他、藤山愛一郎君、日興証券の遠山元一氏など道楽者ばかりが久しぶりに顔を揃えていた。私を含めちょうど10人だ。大倉さんの話は「戦争で荒廃した新橋の再興に手を貸してやろう」との呼びかけだった。
その頃の新橋はお茶屋だけでなく、演舞場も戦災を受け、芸者は四散、全くさびれていた。しかもGHQは、花柳界を封建的で、いかがわしい所と見て廃止に乗り出すとの噂も流れていた。芸者の置屋や検番といった名称は、非民主的な響きがあり、米国人が理解できなかったのも無理はない。そこで新喜楽のおかみや、金田中の主人が「何とか花柳界の存続を」と大倉さんに応援を求めたので、手伝うことにした。
3.興人の管財人に
昭和50年(1975)8月28日、興人が会社更生法の適用を申請し、倒産した。負債額は約1400億円、関連会社を含めると2000億円にも上ると見込まれた。これまでは山陽特殊製鋼が525億円、最大といわれた阪本紡績でも640億円どまりだった。当時私は佐藤造機の管財人兼社長として同社再建に全力を挙げていた。すでに78歳であり、本当に「これが最後のご奉公」と思っていたが、断り切れず引き受けた。
興人再建の難問は、佐伯、富山工場への公害防止設備の設置で30億円以上の金が必要だった。また新旧労働組合の合併などがあったが、専門家の支援を受けようと思い立った。そこで第一勧銀の横田郁頭取と日本興業銀行の中山素平さんに相談したところ、東洋紡績の大谷一二社長と旭化成の宮崎輝社長を紹介してくれた。両社長にお願いすると、東洋紡からは元常務で、技術端の菊池義郎氏、旭化成からは営業のベテランの中山良夫氏を、そして第一勧銀からは元取締役の坂本元雄氏をそれぞれ派遣してくれた。このような強力な援軍のお蔭で、昭和54年8月31日、計画案は漸く承認され、具体的な再建への第一歩を踏み出した。このとき、社長は菊池氏に就任してもらった。