掲載時肩書 | 精神科医 |
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掲載期間 | 1995/12/01〜1995/12/31 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1916/03/21 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 79 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | 昭和医専 大学院医学研究科博士課程 |
入社 | 国府台 陸軍病院 |
配偶者 | ハイカラ家付き娘 |
主な仕事 | 茂吉養父・紀一は精神科パイオニア、 明大文芸、ヒステリー(臓躁病)、日本精神科病院協会会長、アルコール健医会長、 |
恩師・恩人 | 植松七九郎教授(仲人) |
人脈 | 江戸英雄、宮城音弥(級友)、今日出海、水原秋櫻子、高木東六、小林勇、森繁久彌、高田敏江 |
備考 | 青山精神病院、母輝子12年間別居、 |
1916年3月21日 – 2006年11月20日)は東京生まれ。精神科医、随筆家である。愛称はモタさん。医師として斎藤病院名誉院長、日本精神病院協会(現在の日本精神科病院協会)名誉会長、アルコール健康医学協会会長を務める傍ら、作家としても活躍し、多数の著書を出版した。航空会社の旅行バッグの収集家としても世界的に有名であり、また自宅に小型飛行機で実際に使っていたプロペラや日本航空のファーストクラスの座席を飾っていた。実弟が作家の北杜夫。息子の斎藤章二(斉藤病院院長)も著名な飛行機マニアであり、航空自衛隊の「ブルーインパルス」(T-4)の機体の塗装は公募で彼の作品が採用された。祖父・起一は日本初の精神科病院の創設、父・茂吉のドイツ留学や歌人生活、母・輝子の生き方やお嬢様性格などを興味深く詳細に記述されていた。
1.父・茂吉と母・輝子
茂吉・輝子、二人の結婚はどう考えても似合いの夫婦とは言い難い。片や「緋牡丹」などとチヤホヤされて育った誇り高き家付きムスメ、片や田園のにおいふんぷんたるすでに33歳のトウの立った青年。その輝子がよくもまぁこの結婚を承諾したのだと思うが、明治の女らしく「お父様のおっしゃるとおりにした」のであろう。
輝子は大正2年(1913)3月、学習院(女子部)を卒業した。輝子が入学した時の学習院長は乃木希典大将で、部長が下田歌子女史だった。乃木さんの方針は「質素」で、銘仙以上の着物は着てはいけない。式典の時は紫の銘仙の紋付で、袖は二尺以下、袴はそれまでの琥珀縞や塩瀬に代わってカシミア、風呂敷は黒、身体の悪いとき以外は人力車通学禁止等々であった。それゆえ、二人の性格の違いから、のちに12年間もの別居生活が生じた。
2.戦争神経症が多発
私は昭和19年(1944)1月、陸軍の精神科病院である千葉県市川市の国府台陸軍病院に召集された。身分は衛生部見習士官(将校待遇)であった。戦争神経症は戦争の長期化によって次第に増え、外地から還送の戦傷病兵中の精神疾患の比率は昭和13年(1938)の1,2%から年々高くなり、昭和19年には8%にも達した。戦後分かったことだが、米軍の場合、精神疾患で入院した兵士は約100万、うち神経症は63%で最高率を示した。惨烈なガダルカナル島の戦いで戦場より後送された米兵の実に40%が、精神疾患であったのである。
兵士のヒステリー反応的傾向は戦争神経症の特徴の一つだが、それは普通のヒステリーよりはるかにドラマティックかつ原始的で、難聴、盲目、失声、失立失歩(立てて歩けない)など珍しくなかった。あるとき、「ヒステリー」という病名を付けた書類が、陸軍省から「帝国陸軍にはそんなメメしい病気はない」と突っ返されたことがある。院長以下が知恵を絞って中国の文献から「臓躁病」という病名を付けたら、文句は消えた。
昭和20年(1945)8月15日に終戦となった。数日を経て、驚くべき変化が発生した。歩行不能患者が歩けるようになり、戦中、苦労に苦労を重ねても病状が好転しなかった失声症が自然に治ってしまったのだ。
3.日本旅行作家協会(JTWO)は楽しい
私は昭和55年(1980)4月に日本精神病院協会の会長に就任したが、その前の昭和48年(1973)創立の日本旅行作家協会の会長に就任していた。会員数は4百数十人で、会員は物書き、写真家、評論家等で、各国の観光局、各県の観光協会等が協賛会員になっていた。漫画の岡部冬彦さん、慶大名誉教授で、トイレット教授の異名を持つ西岡秀雄先生、旅行家の兼高かおるさんが副会長だ。事務局長はテレビキャスター、航空評論家の中村浩美さんである。作歌の戸川幸夫さん、英文学の福田陸太郎さん等にも長い間、副会長を務めていただいた。
協会には各国別グループと部門別グループがある。国別グループは日本を含めて20数か国に達している。部門別は写真、ワイン、城、自動車、ガイドブック、探検、船旅、飛行機、ゴルフ、街道研究会、それに美術などが研究と仕事を続けている。
この会合ほど楽しいものはない。会員全員が「同好の士」で、同じ目的と趣味を持った人間であるからだ。今日もメンバーの田中光常氏は世界の動物を、井上宗和氏はワインの収集と研究を、西丸震哉氏はニューギニア、ミャンマー等々の「探検」にうつつを抜かしている・・・。この協会は「無限大」に拡がるのだ。
4.東京大空襲の救護班
昭和20年(1945)3月、満州(現中国東北部)から、国府台病院(国病)に復帰すると上空には既にB29の飛行雲が縦横に天空をよぎっていた。日増しに激しくなる空襲に備えて国病では救援隊(軍医、衛生兵、看護婦)三隊を編成し、その一隊の指揮官を命じられた。
最初の出動はあの有名な昭和20年3月10日の東京下町の大空襲だった。強風の吹き荒れる晩、それまでと違ってB29は低空を単機で次々と侵入して来た。下町はたちまち紅蓮の炎に包まれ、我々の立つ江戸川沿いの台地にまで、逃げ惑う人々の悲鳴が津波のように聞こえて来た。
夜が明けきる前、出動命令が下った。我々は焼け残った小学校の雨天体操場などを転々としながら数日間、救護所を開設した。患者の対部分は火傷で、チンク油を患部に塗り、包帯をする毎日だった。どのあたりを移動したのか定かではないが、主として江戸川区、台東区、墨田区を中心とした地域ではなかったかと思う。最後に四つ木で整列、旅団長閣下に解散申告を行ったことを覚えている。
その後我々救援隊は地方都市の空襲、甲府市や宇都宮市などにも出動したが、警報の鳴るたびに患者を裏山の防空壕に入れたり出したりで、もはやかっての「国府台医科大学」的な研究などというのんびりしたことは不可能となった。
5.父・茂吉の8月15日
私は昭和20年(1945)8月15日の正午、本院高等官食堂に将校全員が集合し、陛下のご放送を聞いた。身体がジーンとしびれ、次には何かホッとした気分になり、その後猛烈な不安が襲ってきた。前途不明瞭、情報皆無による不安であった。
茂吉はこの日朝から落ち着かず、妻の輝子と三度も口喧嘩をした。この日の正午に天皇陛下のご放送があることを前日から知っていたからである。11時になると茂吉は口をすすぎ手を洗った。それから紋付羽織袴に威儀を正してラジオを前に端座した。茂吉はその日のことを日記に次のように書いている。
「正午、天皇陛下ノ聖勅御放送。ハジメ二一億玉砕ノ決心ヲ心二据エ、羽織ヲ着テ拝聴シ奉リタルニ、大東亜戦争終結ノ御聖勅デアッタ。噫、シカレドモ吾等臣民ハ七生奉公トシテノ怨ミ、コノ辱シメヲ挽回セムコトヲ誓ヒタテマツッタノデアッタ・・・・8月14日ヲ忘ルルナカレ、悲痛ノ日・・・」。
父は8月15日を14日と間違えるほど狼狽していた。